ふと気が付いたけどこれ日記じゃないわ

「書きたいこと別にないな」とわざわざ言うのは思考のマイクテストのようなものだ。あるかなって考えて、ないなって思ったのを、正直にないなって言うのと言わないのとで、やっぱり違ってくるかなという気がする。

誰かに読んでもらうことを前提にするでもない、自己目的化した書くということの中に何があるのかを考える。整えたり、取り繕ったりしないほうがいい。人前でいつだって取り繕っては大失敗を繰り返すのだから、人のいないところでくらいはきちんと取り繕うことをやめるのだ。

けれど、じゃあ、こんな風に自己目的化した書くということをすることで、どれだけ正直な言葉が出てくるのだろうか。人に見せるような目的がなければ正直になれるとでも思っているのだろうか。というかその正直っていうのはなんだろうか。「素直」とか「自然に」とか「嘘なく」とかって僕はよく言う。けれど人の行動のどこまでが本心だろうか。本心などないと思うが、じゃあなんだろう、何を求めているのだろう。自分の中にもない手触りが自分の中から出てくる驚きだろうか。そんなものがあればいいけれど、たぶん工夫なくまっすぐに走るだけではきっとそういうのは出てこない。

なにか意図的に曲がったり、飛んだり跳ねたりしないことには、驚きもなにも返ってこないだろう。意図的に何か自分に課すということ。それも返ってくるものが自分の予想できるものに決して収まらないような、無意味な制約こそがいいのかもしれない。

気がつけばいま、僕はダンスのことを考えている。自分自身の身体に驚きをもたらすこと。コレオグラフ。身体を動かす以上の、心を動かすということ。それは感動という言葉で語られるような陳腐なものではない。「驚く」というのは不随意だ。不随意を誘発するということ。自分の中の「不随意」という名の「理不尽」さをありありと目にすること、それと戯れること。

「人を動かす」ということを最近考えている。「あ、動かされてしまった。人は人を動かすことができるんだ」という体験からそれに興味が湧いた。コレオグラフ。振り付ける。それは誘いであって強いることではない。「動く」ことを求めるが、「動き」を強いることのないコレオグラフ。けれど動ける範囲が狭ければ、ほとんど「動く」だけでなく「動き」まで強いることになる。可能性の適切な広げ方と、適切な閉じ方。そこには時間軸が存在するべきで、可能性自体が開いたり閉じたりと動き続けるべきである。動くものにこそ人は誘われるのではないか。

先日のワークショップの中で良いイメージを掴んだのだけど、実践してみないとわからないな。なので実践する。まずは自分を動かすということについて、もう少し考えてみる。