日記

今年の初めに演劇についての文章を書いたら、若干ながらもバズってしまって、それですっかり心が疲れてしまって、疲れただけなら良いのだけれど、そのときのモードが、人に読まれるという反響を通して、環境に規定されて、モードが強化されたというか、固定されてしまったような形で、思考がそのことを考え続ける。考えたくもないことを考えてしまうというのは、どことなくPTSDめいているというか、そこまで言ってしまうと言いすぎかもしれないけれど、考えたくもないとまでは思ってないわけだけれども、とはいえなんとなくそんなような強迫観念のまとわりつくような感じが、ずっと続いている。

頭を切り替えないといけないというので、とりとめのない文章を書こうと思って、日記をまた書いていこうと思う、日記を書くというか「とりとめなく書く」ということを通して、頭をもやんとさせたい。とりとめようとりとめようとしている頭に、マテマテと言いたい。マテマテ。昼に髪を切った。

昨日のことだが祖母が亡くなって、いまその告別式に出席しようと実家に帰っているところなのだけれど、祖母は僕が小学生くらいの頃から認知症を患っていて、物忘れが多く、物を失くしたり、毎晩カレーを作ったりしていた。「今日はカレーかうどんにしようと思うのだけど」としょっちゅう聞いて来た。昨日もカレーだったよと言っても無駄で、やがて祖父が料理をするようになった。通夜は今日だったが、そちらは参加できず、ただ「通夜」と「告別式」の違いがよく分かっていなくて、いま調べて、なんとなく分かった。カレーを作ることも許されなくなった祖母は、ある日坂道で転んで大怪我をして、入院した。入院してからは認知症が一気に進行して、もう僕を僕だと認識することは出来なくなった。

退院後はそのまま老人ホームに入居することになった。会うこともガクッと減った。僕の生活から既に祖母はいなくなっていて、なので亡くなったと聞いて、取り立ててショックはなかった。これは日記なのだろうか? 分からないが、死は、ある日突然訪れる類いのイメージが多いが、必ずしもそうではない。認知症を患ったときから祖母は、僕の中で少しずつ死んでいて、僕のことが分からなくなった時点で、僕にとって祖母は死んだ、それは身体を持った祖母の思い出であり、いま、その身体の活動も止まり、明日にも焼却され、ついには思い出だけが残る。

人の死について考えるとき、二つのことを思い出す。一つは高校生のとき、久々に会った小中の同級生と、「クラスに誰がいたっけ?」という話をしたときのこと。物の見事にクラスメイトの名前を忘れているのだが、話しているうちになんとなく思い出す、しかしどうしてもある女の子のことを思い出せないでいた、僕たちにとって影の薄かったその子のことを、ようやく思い出してスッキリして、それで話は終わったが、きっとそもそも、思い出そうとすらされなかった誰かが、そこに存在しているような気がすること。確かに出会ったものの、記憶からすっかり消えてしまい、もはや思い出すことのなくなってしまった誰かが、常にどこかに存在していること。もう一つは、いきつけのカフェの店員が、ある日突然に仕事を辞めてしまって、その人と色んな話をした僕としては別れの挨拶くらいしたかったのに、何もできないで去ってしまった彼女のその後を、その半年後くらいに噂に聞いたこと。「どうも映画の勉強をするために映画学校に通っているらしい」と聞いたこと。急に理不尽に途絶えてしまった記憶の流れに、物語が生まれたときに感じた安心。きっといまごろ映画を撮っているんだろうと素朴に思えてしまえること、でもそれがそう簡単でない以上、いまでは夢を諦めてしまったのかもしれないこと、でもそこで選択肢があるだけいい、思い出されない者は選択肢を持たない。

書いているうちに一眠りしてしまって、何を書きたかったんだか忘れてしまった。書きたいことは書いたような気もするし、もう少し別なことを言いたかったような気もする。

思い出した。思い出したというか、どんな風にこれまでの文章と繋げるつもりだったのかは思い出せていないが、自分の書いたテキストが影響を与えてしまうことについて書こうと思っていたのだった。テキストを書くことは、少なくない、というのも僕は演劇を作っていて、脚本を書いたりするので、それでよくテキストを書く。けれどもそれは俳優の身体を通して、俳優の発語として発されるので、目で見て読むようなものとしての「テキスト」として人に伝わることはほとんどない。だからテキストが他人に影響を与える感覚というのは、実はそこまで経験がないのだが。

しかしごくごく稀に奇特な人が、僕が書いた台詞をツイッターに書いてツイートしていたりすることがある。そういうのを偶然に見かけてしまったとき、ものすごいギョッとする。自分の書いたテキストが、別のところで急に目の前に立ち現れてくるからだ。見知らぬ女が幼子の手を引いて現れ、この子はあなたの子よと、女が幼子を指して告げ、全く身に覚えがないものの、恐る恐る覗き込んだ幼子の瞳から、真っ直ぐに放たれる視線を一身に浴び、どうも自分の子どもであるのは確からしいと直感してしまうときのような、そういう類いの怖さに襲われる。君の書いた日記と、書き方から内容からあまりに酷似した文章を君の後輩が書いているよ、と人に聞かされて、読んでしまったときにもそういう感覚があった。こうしたことがとにかく怖い。

テキストにそういう力があるのは間違いないが、演劇では上演の時間だけを問題にしがちなので、後のことはどうにもあまり考えない、し実際演劇ではその影響は目に見え難い、それでこうしたことも起こるわけがないとどこかで思っていたのだが、そして僕にそんな大層な影響力などないだろうと、そういうことを思っていたのだが、僕の力などとは全く無関係に、テキストというものは知らないところで知らない力を発している。こういうことはこの先も起こるのかもしれないが、ホント覚悟して気を付けていかないと大変なことになりそうだ。

大事だと思うのは、そうした事態に出会したときにこそどう振る舞うかということではないか。以前考えたこととして、「記憶は、忘れないでいることよりも、むしろ忘れた後、思い出されてしまったときにどうするか、ということのほうが大事なのではないか」というのがある。こうしたことに近い何かを感じる。上手く繋げていないので同じ話として読めるかが疑わしいが、このテキストにまつわる話と祖母の死についての話は、僕の中では同じ話だ。いつも同じ話をしている。同じことばかり考えている。いま読み返してみたが、これはリハビリに失敗しているのでは???