新しい集団(創作)論へ

今日はシアターコモンズラボのオープンセミナーに参加してきた。制作、プロデューサー向けだが、僕は自分で自分のプロデュースをやらねばならんので、そういう知識も必要な気がして参加することにした。あと僕は森山直人ゼミにも参加することになっている。ジゼル・ヴィエンヌWSにしてもだが、今年はどっぷり芸術公社にお世話になる。

さらに言えば僕は批評再生塾も聴講しているのだし、クマ財団も合宿まで用意してなんやかんややってくれるので、今年は勉強をする年だなあというか、勉強の必要性を感じたところへ色々といい機会が転がり込んできてくれて幸いだなあというか、感無量だ。ただしどれにしても「行ってりゃいい」なんていうオキャクサマメンタリティでは何も得られないので、主体的に色々と勉強しなくてはならない。特に批評再生塾……そこは「教えてくれる場所」からはもっとも遠い……。休む暇なく勉強する。ま、どうせ若いのだから無茶すればいいよ、若いのは今だけだぞ若者、がんばれ、と脳内で謎のアラサーお姉様から励ましのエール。お前はどこから湧いて出た。頑張ります。

さあ、それで、今日はオープンセミナーの初回で、芸術公社代表理事の相馬千秋さんが直々に講師で、アートプロデュースという視点から、つまり実作よりも次元の高い視点から自分の活動を相対化する羽目になったのだけれど、どうもそのレベルでの活動にリアリティというか、求心力がずっとずっとある気がして、「劇団」なんていう単位の機能してないことを改めて思い知った。

以前はSPAC宮城聰さんの「演劇はやっぱ劇団っしょ」的なことをおっしゃっていたのに対し、その通りだなあと思っていた。でも一方で「劇団という単位では人が集まらない」ということのリアリティも、ずっとひしひしと感じてきたわけで、じゃあどうやっていこうかしら、というのを今日は考えていた。

現代の東京の演出家主導でのプロデュース形式の公演は、強力なフローがそれを成立させてしまっているものの、ストックの弱い点において、というか端的に言って継続の難しいことにおいて、あまり健全ではない。かといって、自分が「制作」だったり「俳優」だったりしたとして、どこかの劇団に所属してやっていく、ということにリアリティを感じられるかというと無理なのだから、人に声をかけるのもやはり憚られる。というかかけてみても断られて当然よね、という。

たぶん、宮城さんの言葉の意味を額面通りに捉えてはいけないのだ。「継続的に活動していくための基盤を持つ必要がある」くらいで考えたい。そしてそのために基盤は、きっと現在では「劇団」ではないのだ。

今日では、俳優もスタッフも主体的な意志を持っている。強力な演出家の元でガシガシ作品を作るだけの駒になる、なんていうのはもはやリアリティを失っている。もっと私たちは対等に働ける必要がある。演出も、俳優も、制作も、その他のスタッフも、あるいは観客すらも、自分の意志を持っていて、それぞれの意志が共存しながらも繋がるための基盤が必要なのだ。

「劇団」よりももう一つゆるいつながりで、私たちはクリエイションを行えないだろうか。そのための方法論を模索しないといけないなと思った。これまでのやり方から抜け出さなくてはならない。

そしてその集団論は、より小さなレベルにおいても、つまり演劇における「俳優 – 演出 – 劇作」の関係性においても考えていかないといけない。演劇では「演出家の時代」とまで言われていたわけだが、たぶんもうそれが機能しなくなっている、ということを、「演出」が全面に出過ぎている演劇作品を見ながら思う。そして自分でガシガシ演出をする中でも、やはり限界に感じる。いま僕がもっとも面白い演劇だと思うのはオフィスマウンテンの山縣太一さんの作品なわけだが、彼の作品の何が良いって、作品の総体が彼の演出一本から出てきたものでないことが目の前のパフォーマンスからありありと見て取れるのが素晴らしいのだ。俳優の身体性が前景化している。さらに言うと、春から受けてきたダンサーの手塚直子さんのレクチャーで、彼女が民俗芸能のリサーチを行う中で「人と人の間から自然発生的に生まれるおどり、うた」に関心を持っていることを知ったのだが、あれも白眉な視点だと思う。そこで考えられているのは、強力な中心を持たない形での創作の在り方だ。

つまり演出家をトップにおいたピラミッド型の創作ではなく、演出家が、劇作家(テキスト)が、そして俳優一人一人が、みな同じ地平から作品を作っていく必要があるのだ。ということを今日に限らず近頃ぼんやりと考えていたのだけど、昨日たまたまメイエルホリドの文章を読み返していたら同じことが書かれていて驚いた。

まあ、現代からしてみればメイエルホリドも「上に立ちすぎ」なんじゃないだろうかという気もするが、そこは時代が違うので並列関係のイメージも違うのだろう。きっと今にしても、みんな別にピラミッド型で創作を行なっているつもりはないのだ。しかし結果的にそうなってしまっている部分があるのだから、創作方法をラディカルに問い直していかなくてはならない。

とりあえず10月、亜人間都市の公演がある。それは「亜人間都市の公演」であって、僕がプロデュースする僕主導の公演ということになるのだけど、まあそれでも稽古場での俳優との関係性作りにおいていろいろと試せることはあるだろうから、「その先」をなんとなく見据えながら、模索していきたい。