インターネットの束縛から俺を解放運動あるいは言葉への態度の変更について

用事があって外に出て日差しの暑い中の道を歩いたり電車に乗って本を読んだりしている時の頭の中では、いろんなイメージが渦巻いていて、たくさんのことを考えていて、とても豊かだった気がする。実際いくらかメモに残しているので、それを見るだけでも「たくさん色んなことを考えていたなあ」と思い返せるのだけど、いざ文章にしようとなったときに、何から書き始めようか、事の発端はなんだったか? とか思い始めて、キーボードの前で固まってしまうのはよくあることだ。でもそんな、何が最初だとか、どう文章を終わらせようかとか、そういうことから自由になって、とにかく文章を書いていって、書けなくなったらそこで終わりにする、というようなそういう言葉との関わり方をしていけないだろうかと思っている。

「事の発端」というのはきっとなくて、いくつかのことが同時に、少しずつ積もっていった結果なのだろうと思うのだけど、とりあえずそのうちの一つとして、インターネットのことを僕は考えていた。

この画像をスマートフォンの壁紙にして、ツイッターとかを頻繁には見ないように決めた。せいぜい1日1回とか、そういう感じで。なんでそんな風にするのかというと、まずとにかくツイッターが嫌になっているというのがある。

第一にタイムラインを見ているのが嫌だ。というのは、ツイッターを快適に使うために、僕はほとんどのユーザーをミュートして、ごく一部の人だけが見えるような状態にしてツイッターを使っていたのだけど、そうすると比較的客観的な情報だけが流れてきて、ごく個人的な誰かの幸せや妬みやといった感情に対して、こちらが嫉妬を覚えたり、流れ弾的に憎悪に当たったりしなくていいので快適だった。ところが、要するにリベラルで社会的な人たちだけを見えるようにしていたということだったのだけど、森友学園問題が浮上してきて以来、どうしてもそういう方々のツイートが変質してきて、それに耐えられなくなった。どう変質したのかというと、端的に言って、客観的じゃなくなってきたのだ。そのことに自覚的で、意図的に現政権に対して憎悪を漏らす人もいれば、そのことに無自覚に個人攻撃を行ってしまっている人もいたと思う。でもどちらであれ同じ事で、多くの人がくだんの問題をきっかけに、誰が正しくて誰が正しくなくて、あいつの頭が悪くて云々カンヌンと言い始めてしまった。その事に耐えれなくなった。

なんというか、言っていることは正しい、という人は多いのだけど、どうしてか問題の矛先を個人に向けてしまっている。どうして槍玉に挙げられているその個人も間違いを犯す事もある、私たちと同じ一人の弱い人間であることに思い馳せることができないのか。個人ではなくその背後にあるより大きなもの、社会システムだとかいろいろ、そういうものに目を向けないといけないんじゃないだろうかと思って止まない。

第二に、そういう政治的なものを含んだ色んな複雑な事を僕が考える一方で、そのことを一つも言葉にできない不自由さを感じてしまっているのが嫌になった。これはいつからそんなことになってしまったのか分からない、自分のタイムラインを読むうちに、つまりフォローしている人たちの言葉が変質していくのを見ているうちにそう感じるようになったのかもしれないし、現実の知り合いのフォロワーが増えてゆくにつれてそういう感じになってしまったのかもしれない。匿名ではなく実名でSNSをやることに息苦しさがある。それを選んだのは自分なのだが、そんな結果になるとは思ってもいなかった。いや実のところわかっていたが、自分ならなんとかうまくやれると思っていた。とはいえ実際そんなことはなかったのだから、やっぱりわかっていなかったと言うべきなんだろう。たとえ自意識過剰であるとしても、その言葉を読んでいると想定される人の事を無視しては文章を書けない。どうしてもツイッターはそういうしがらみの多いものになってしまって、なにもツイートできなくなってしまった。

そんなわけで、デジタルデトックスではないが、ツイッターは見ないようにした。そういう事は度々行っていて、でも結局見るようになったりして、禁煙めいて繰り返しているのだけど、一時的にでも禁煙できるならそれでいいとも思いつつ、再びやっているのだ。

「デジタルデトックスではないが」と書いたけど、これは本当に「そうではなく」、インターネットは便利すぎるとか、ツイッターは感情を揺さぶられて疲れてしまうとか、なんか今まで自分が行っていたそれこそデトックス的なツイッター離れとはもっと別の理由で、今僕はツイッターを絶っている。「禁煙」といったけど、何かを我慢するというよりは、「態度を変える」という感覚でいる。

人間が思っているよりも言葉というものはずっと厄介である、ということを、最近は思うのだ。僕なんかはインターネットとともに青春を過ごしてきたので、「ネットは友達!」くらいに思っていたけどそうではないのだ、そこにある無数の言葉たちは友達と言えるほど私たちのことを知らず、また私たちも言葉を知らない。言葉たちは〈友達〉よりもずっとずっと〈他者〉の貌をしている。僕も言葉の扱いを得意だと思って生きてきたわけではないが、人並み以上には扱えるだろうと思っていた節があったのだけど、そんなのは勘違いで、言葉でたくさんの人を傷つけてしまっている。でも、当然だけど、傷つけるつもりなんかなくて、なにかが上手くいかなくてそういう結果になってしまっているのだ。そして相手も(自分も)何もないところから敵意だのなんだのを読み取ってしまって、必要もないのに自他ともに傷ついてしまっている。だからといって、こうしたことは仕方がないのだ、と納得できるわけではない、もちろん。粛々と反省する中で、さすがに今回は自分の不出来を思い知った。「言葉は簡単には扱いえない」と態度を改める事にした。インターネットの使い方が、自分にとって他者と接するにもっとも誠実なやりかたではなかったから、僕はツイッターをやめる。やめる? やめはしないが、毎日タイムラインをおっかけたりしてはもう暮らさない。

かろうじてこうしてブログにだったら文章を書けるんじゃないか? と思って書いている。ここで文章を書く事は、ツイッターとは全く手触りが違う。読みたい奴だけが勝手に読むんだろ、という投げやりな感じが、僕に好き勝手に文章を書かせる。いま、保坂和志の小説やエッセイを読んで、その影響が大きいのだとは思う。もうちょっと色んなしがらみに囚われずに、自分のためだけに言葉を連ねることの中から、言葉との接し方について改めて考え直していきたい。

書く事は疲れるし時間がかかる。今日は本当はもっと色んな事を考えていて、鳥公園の演劇を見て、「身体」のことだとか「対話」のことだとか、それこそ保坂和志のこととかそういう、書きたかったけれど、ネットのことを書くだけでくたくたになってしまったので、そろそろ書くのをやめる。ブログは三日坊主になりがちで、そのことは良くないと思われがちだし自分も思いがちだけど、本当はきっと悪い事ではない。少なくとも取り組む事になったその1つの記事を書く時間の中で、自分なりに何かしら得られるなら、別にそれでいいのだ。そうした「過程の重視」を実践して生きていきたい。地に足をつけて生きるように、言葉も「書く」という形でこの手で触れて、関わっていきたい。