書ききれていないが、もういい。

あ、あ、と脳内でマイクテス、してしまって、文章を書き始めるにもそういうワンクッションが必要なようで、そういうことまできっちり言葉にしたい。

今日は遠くで花火の音が聞こえて、官邸前デモを思い出したのだが、起きたのは昼で、朝から横浜に出かけるためにバタバタしていて、出先で花火大会があるだなんて想像もしなかった。出先というのは北千住で、横浜から帰ってからの話なのだけど、少し早く横浜に着く電車の中でペーター・ハントケ『幸せではないが、もういい』を読む。この作品は、邦題がこれだけでもう素晴らしい。原題は "Wunschloses Unglück" で、直訳はどうも難しいっぽいのだが、雑に調べたところ、英語との対応でいうと "Wunsch-los ≒ Wish loss" で "Unglück ≒ Unluck" ということらしい。望みなき幸せ? 恐らくはもっといろいろなニュアンスがあるのだろうが、とりあえず邦題のこの訳は良いということで話をまとめ、最近ドイツ文学を読んでいるのだけど、それは授業で「ドイツ文学概論」というのを取って、面白いからなのだが、そこでは戦争経験の言語化という視点からドイツ文学を読んでいて、ドイツ(オーストリア)の語りえぬものをなんとか語ろうという営為がとても興味深いのだ。というか文学なんていうのはそもそもがそういう営為なわけだが、「戦争」「死」という大きな共通項を仮構して読むことで、比較の中で各作家の手法が見えてくるというそのことが興味深い。

語りえぬものを語るということは、失敗を描くということである。いかに失敗するかがここでは重要なのだ。そうしたことをベケットも言っていた。俺もその意味でベケットを読んでいる。「僕もそんな風に失敗したい」というようなことを口走りそうになる。それはそうなのだが、その結びは、綺麗に収めようという欲望の現れだ。失敗することに失敗しそうになったわけだが、その失敗は良いのか悪いのか?(笑)

横浜、お腹が空いて、でも「せっかくの横浜なので」ということもなく、コンビニで食べ物を買う。演劇を観にはるばる横浜に来るのは良くあることだが、横浜という街を観光出来たことは終ぞない。ただ見るだけというのも経験として貧しい気もするが、折につけて観光と結びつけるのも変な気がした。自然体が一番だが、自然ってなんだ? と疑いを持ってしまうのだから苦労が絶えない。演劇と観光は結びつきやすいけれども、必ずしも結びつくわけではないということかな。

今日観たのは手塚夏子さんのパフォーマンス作品。というかプロジェクト。それについて考えたことを語る体力がなくなってきた。もうすぐ文章が終わる。横浜から帰って、北千住へ。2時間も早く着いてしまったので、北千住に関しては流石に観光というか、うろついてみたが、飲み屋ばかりで食べるだけのところが少ない、あとカフェも。見つけられなかっただけだとは思うが、彷徨い歩いて結局コメダ珈琲みたいな感じだったので、だったら食べログで調べるので良いじゃん、となる。頼ってばかりがダメなのであって、頼るのは悪いことじゃないんだろう。そのバランスをどう取る?

「便利すぎる」というのは、ある意味で良くない。麻薬だって「気持ち良すぎる」から依存するのだ。と並べるのは強引かもしれないが、しかし、「良い」ということが結果として「悪い」と結びつくことがそのようにあるわけで、本当の意味での「良さ」を高いレベルで考えることが、生きるということなのだと、どうやら僕は思っている。他の人の「生きる」はそうではないかもしれないが、違うからといってそのことに捉われなくて良い。