夏に降る雹の当たるのは、きっととても痛い。

今日は所沢へ、大学へ行って、雨が降っていたと思う。天気予報では30%だか40%だかの降水確率だったので、降ってもぱらぱら降る程度だろうと思っていたら大間違いだった。たくさんの水が降りてきて、雷まで鳴っていて、どうも雹まで降っていたらしいのだけど、最初はそのことがわからなくて、停電したあたりで「その音」が豪雨と雷だということに気がついて、驚いたのだった。停電はいくつになっても楽しいもので、これが大事な仕事の最中だったり、大切なデータを保存していなくてパソコンが落ちてしまったとかなら呪いもするだろうが、そうしたことと無縁である限り、日常空間が非日常になる数少ない瞬間としてただ楽しい。いろんなことが許される気がして、灯りの消えている間だけ、僕たちはおしゃべりをやめられない。外は暗くて、雲がとても厚いようだったから、これは単なる通り雨じゃないな、帰るまで降り続きそうだ、思った。そのあと、生協でたくさんの人が傘を買っていたのを見たが、なんだかバカらしくて、きっと待っていればそのうち降り止むのにどうして傘なんて買うんだろうと思っていたら、授業の終わる頃にはやっぱり雨は止んで、あのぶ厚い雲が嘘のような晴れ間を見せたのだった。

今日はなんだかたくさん眠くて、昨日夜遅くまで起きていた覚えはなかったのだけど、行きの電車でも、授業中も、帰りの電車でも寝ていたのだった。相変わらずカフカを読んでいて、ようやく文体に慣れたのかするする頭に入ってくるようになった。『審判』は原題では ”Der Process” で、意味としては「訴訟」とか「過程」とかいうらしく(英語のプロセスと近い意味だ)、判決という結末に至ることのない過程とその限りない延長、ということなのだと、ちょうど受けているドイツ文学概論で教授が言っていたのは、昨日のことだ。カフカの小説に出てくる人物は、みな割と人間らしく、一方でどこか非人間的だ。愛することができなければ、軽蔑するにも至らない。ただただ「向こうにいる人」という感じの手触りは少しだけ不思議だ。

帰ったらジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の柳瀬尚紀訳が届いていたのは、昨日のことだ。今日は帰ったらイェリネクの『死者の子供たち』が届いていた。買う時には気がつかなかったが、『死者の子供たち』という本はとても分厚くて、手に取って面食らってしまい、とりあえず後書きだけ少し読んだのだけれど、イェリネクはピンチョンを長らく訳していたとのことだった。その話はどこかで聞いたことがあったのを、読みながら思い出した。ピンチョンは当然のこと、『フィネガンズ・ウェイク』こそたいがい翻訳不可能な小説で、柳瀬さんの訳でも、おそらくは名訳なのだけど、名訳であるが故に逆説的に翻訳不可能性までもが訳出される、ということが起こってしまう恐ろしい小説で、これは読むに骨が折れそうだと思った。で、ピンチョンもきっと訳するのは大変だろうなと思いながらも、しかしあの言葉の中に浸り続けた経験は豊かだったのだろうと想像すると、手元にある小説の厚みも豊かさとして感じられるわけだが、かといってすらすら読めるわけがきっとないし、いま読んでいるのはカフカなのだから、いつになったら読み始められるのか、読み始めることすらないままこの先ずっと積まれたままな気が薄々しながらも、本棚にこの本が置かれている画だけ取ってみれば、読み通すに至らなくても幸福というものだ。

そのあとは文字起こしの仕事を少しして、次回公演の宣伝美術の打ち合わせを行った。こういうことがしたい、ああいうことがしたい、という話をしながら、ああ僕はまた話が長くなってしまっているなとか、きっともう向こうは「わかった。もうわかった」と思いながら聞いているんだろうなとか、反省しながらも、逆にこちらも「わかった。もうわかった」と思いながら相手の話を聞いたりした。どうしたらこれを解決できるのだろう? 最近は消化不良でも相手の関心に合わせて話を止めたり、相手が自分の話を遮って話し出せるように間をたくさん空けて話したりしてみているのだけど、根本的な解決になっている気がしない。言うべきことをコンパクトにまとめられたら良いのだけど、どうしてもできないのだが、しかし「考えてから話す」というのだといつまでも言葉は出てこないんじゃないか? 話しながら考えて、レスポンスを貰いながら、上手い言い方を見つけたりして、それでやっと話は「最適な短さ」になるんじゃなかろうか。という気がするのは、「そうであってほしい」という願望の現れだろうか? 最初から言葉を切り詰めることができれば良いのだが。

「今回は全然やりたいことが違うんだ」というのを念頭に起きながらコンセプトを相手に伝えても、「毎回同じだよね」と言われてしまって、そこで初めて「いや、確かに毎回そうだな」と気がつかされるのだった。自分でも「流れ」みたいなのを意識することはあるのだけど、それでも気がつかない関連性みたいなものはきっともっとたくさんあって、そのことは人に指摘されないとわからない。もっとたくさんの人に自分のことを言葉にしてほしい。自分も人にそれができればいい。

打ち合わせが終わって夜更けで、眠らなくてはいけないのだけど、これで1日が終わるというのが嫌で、というか深夜になってしまっているから、ぼくは1日を延長してすらいるのだけど、そこまでしてどうして気持ちよく1日を終われないんだろう? なにが物足りないんだろう? 「今日は1日楽しかった」と満たされて終われた試しがない。いつもなにかやり残したような思いがある。身体が疲れていないからだろうか? でも疲れで倒れるように眠る時も、「まだ寝たくないのに!」なんて思いながら寝て、何より起きた時に「ああ、寝てしまった……」と苦い思いをすることになる。演劇を作れていないからだろうか? 稽古のある日は、忙しいというのもあるが、いつも「さあ明日へ!」という風に眠りにつけている気もする。そんなのなくても満たされて1日を終えることができたらいいのに。「できればいい」と前のパラグラフもその前のパラグラフも願望で終わっているが、欲に塗れているから眠れないのかもな、と、ちょうど昨日今日と見ていた森達也監督のオウムのドキュメンタリー『A』に出てくるオウムの方々の世界観に影響を受けたようなことを思った。