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01 紀伊國屋書店新宿南店


 臨時休校を受けていくつかの版元が、休校で家にいる子どもたちのために電子書籍を無料公開した。そのことを聞いてまず思ったのは「よかったな」で、次に思ったのが「本屋さんたちが…」ということだった。外出を避けるのなら本屋さんに行くことだってできないけれど、そこまで厳密にならなければ家にこもる準備として本を買うという選択肢ははあるはずだし、子どもたちにとって「家にいる時間が長くなるから読む本を選びに行く」というのは豊かな経験だと思った。版元のボランタリティを感じることとは別で、その機会が減っちゃたなと思っていた。ついでに、本屋さんにとってはビジネスチャンスだったのに、とも思った。

 ウェブサイトで読書案内をスタートしたのは、10代後半あたりの年齢の人たちに、一緒に生きていく本を見つけてほしいと思ったからだった。そういう1冊を持っている大人たちに、その本とのなれそめや蜜月や今の関係を語ってもらいたいと思った。そして実際にそういう原稿をたくさんの方々が書いてくださった。いったい何人の若い人たちに「自分もこういう本を見つけたいな」と思ってもらえたかな、といつも考えている。

 この過程でたくさんの人たちと出会って、仕事としての本へのかかわり方ってこんなにあるんだなと改めて思った。版元、編集、ライター、校正者、デザイナー、装幀家、印刷、製本、取次、書店、図書館司書......。なかでも司書の方々から教わったことは多い。それぞれの仕事をすべて尊く思うなかで、個人的な感情として心が動くのはいつも本屋さんに対してだった。新刊書店と古本屋さんの違いも、それぞれの店主と話をしたり書かれたものを読んだりするなかで理解しているけれど、とりあえず置いておくとして。伝えたいのは本の存在よりむしろ本屋さんの存在だったのかもしれないと思うほどに。

 ----そういうわけで、現存している本屋さんや最近閉店してしまった本屋さんのことを書いていこうと不意に思ったのでした。なるべく店名をきちんと書いて、本屋さんの紹介と言うよりも、本のことを書いている時と同じように本屋さんと自分の(そのほとんどが一方的なものだけれど)関係を描いてみようと思います。

[01 紀伊國屋書店新宿南店のこと]

 私にとって本は、自分で棚の前に立ってそこから読みたいものを探してお財布からお金を出して買うものだった。一連の行動を通して手に入れた1冊だから、その先もずっと一緒にいられる1冊になってくれる。これがある程度は普遍的なものである確信もあった。そのために絶対に必要な本屋さんが、仕事場のある街でも生活している町でもどんどん閉店していくさまを、この10年くらいずっと眺めてきた。

 たとえば仕事場の近くでは「紀伊國屋書店新宿南店」が閉店した(本当は閉店ではなくて6階スペースの洋書専門書店だけに絞った売場縮小)。この街に点在していた小さな本屋さんが閉店に追い込まれたのは、この大型書店の影響が少なくなかったと思うけれど、たくさんの本屋さんを飲み込んだままこの大きなお店が閉店してしまったのは2016年のことだった。まずこのお店のことから。
 仕事をしていればそりゃいいことばかり起きるわけではなくて、仕事場にいたくないところまでいくことだってある。お世話になっている人や可愛かった後輩を上とか下とか呼んで恐縮だけれど、上と上手く意思疎通が取れず、下の考えていることが分からないというような時に、その場所に留まって淡々と原稿を書き進めるのは至難の技だった。そういう時に出かけるのがこの南店だった。

 良かったのは、思惑が見え過ぎないところだった。思惑というのは店主による本のセレクトのことで、基本的には思惑の見える本屋さんが好きだけれど、こちら側にパワーがないとそういう棚には向き合えない。 

 新刊や売れている本が平台に並び、雑誌も最新号とその少し前のものが一望できた。この一望が南店のポイントで、売り場が広々として背の高い棚が少ないので「見渡す」ことができた。直近で出版された本、売れている本、注目されている本を一望できること。それはそのまま今日の世の中を見渡すことに近かった。仕事を始めたころから南店が閉まる2016年までのあいだ、一望しながら学んだことは多い。そこにいくつかのセレクト棚があって、大型チェーンのなかの「南店としての意思」が見えるところも素敵だった。
 在庫の数も多かったように思う。あんなに大きな棚があんなにたくさんあるのに「棚に出せていないかもしれません…」とか言って棚の下にある引き出しから探している本を取り出してくれることもあって、ここには何でもあるんだなと頼もしかった。働いている場所のすぐ近くで世の中を一望できた。それができなくなったことの大きさを痛感することは思いのほか多い。

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