過去から未来を見つめるひと
編集者・鵜沼聖人さん
企業史制作ディレクター/旧DNP年史センター代表取締役
取材・文/鈴木朝子
企業が重ねてきた歴史を記し、未来を見つめるための糧とする本のことを「社史」と言う。日本最大手の印刷会社である大日本印刷株式会社に、社史制作を専門とする部門がある。2000年から2012年までのあいだ、この部署は株式会社DNP年史センターという独立した組織だった。同社の代表を務めていた鵜沼聖人さんは、2019年1月、自身の誕生日をもって大日本印刷株式会社を退職した。退職後に、仕事場から持ち帰った膨大な資料を自宅で整理し、名刺の数を数えてみたと言う。あまりに忙しい時期に行方不明になったものを除いて、その数は1,836枚。企業・団体の数にして679にのぼる。制作してきた社史と、社史を完成させるまでのプロセスが、それぞれの企業が未来を拓く道のりを支えてきた。
7人家族の利発な末っ子
鵜沼聖人さんは、1954(昭和29)年、福島県平市(現・いわき市)で生まれた。祖母、両親、兄ひとり、姉ふたりの家族の末っ子として育つ。
幼い頃から知的好奇心の強い子どもだった。6歳上のお兄さんの勉強はさすがに難しかったけれど、4歳・2歳上のお姉さんたちが小学校で学んできたことを聞くのが好きだったと言う。お姉さんがその日に習った掛け算の九九をお風呂でくりかえし唱えるのを聞きながら、幼稚園入園前の鵜沼さんはすべて覚えてしまった。お祖母さんと出かける時には、街まで20分かかるバスの窓から見える広告の文字を、一つひとつ読み上げた。
「バスは5歳くらいまで無料でしょう。(小学生だと思われてしまうから)あんまり大きな声で読むなって言われてね(笑)」
夜には、お兄さんがしばしば聴いていたラジオ番組を、ターンテーブル付きのラジオ受信機の前に座って聴いていた。3、4歳で耳を傾けていたラジオドラマが吉永小百合のデビュー作『赤胴鈴之助』だったことは、後で知ったと言う。
利発な少年は、活発でもあった。小学校に入ってからは、原っぱで三角ベース、ソフトボール、野球……「家では兄たちとはパワーもスピードも違うから遊んでもらえなくて、学校に入って仲間ができて嬉しかった」。外で遊べない雨の日には、『冒険王』『少年ブック』などの漫画雑誌を、お祖母さんにねだって買いに行った。
夫婦仲のとても良かった両親は農作業で忙しく、鵜沼さんは「おばあちゃん子」だった。その祖母が中学1年生の時に他界するまで、一家は7人で暮らした。
「だから僕は今でも家族という言葉を聞くと、あの7人と、7人で暮らした家庭の風景を思い出します」
この世界は正しくないのか
周囲に愛されて育ち、小・中学校を通して何事にも前向きに取り組み、器用でもあった鵜沼さんに「反動」が来たのは高校生の時だった。
「その頃、精神小説のようなものがあって、そういうのを読むなかで、良い子であることが良いわけじゃないって気づいたところもあります。悪ぶることが格好いいと言う。それで、極端なんだけれど、高2の物理のテストを白紙で提出しました。こんなのやらなくていいだろうって……そういうことが格好いいと思ったんでしょうね」
鵜沼さんが高校3年生の時、1968年頃から始まった全共闘運動の余波が、いわき市にも押し寄せた。通っていた高校でも校内でストライキなどが繰り広げられ、三里塚闘争に参加した生徒たちが停学となり、その処分を不当であるとする仲間が中庭でマイクを持って演説──鵜沼さんの親しい友人たちも、こうした活動に参加していたと言う。自宅に呼ばれ、協力を要請されたことも何度もあった。
「この不自由な世界を変えるには協力が必要だ、あした中庭に集まってスクラムを組んでくれ、というわけです。僕はすごく迷ったんだけれど、参加できなかった。臆病だったこともあるんだろうけれど、嫌だったんだなぁ……」
それからたびたび集会に誘われるものの、一度も顔を出さなかった。3年生になると、そうした誘いから逃げ出す目的もあって、授業をたびたび抜け出して映画館に通った。『イージー・ライダー』が大好きで公開中に何度も観た。この時期の居場所は映画館か書店。現在まで付き合いの続いている同級生の記憶には、「鵜沼くんといえばいつもヤマニ書房(地元の書店。現存)でふらふら立ち読みしていた」姿が印象深く残っているという。
学生運動に参加する流れのなかにどうしても入れなかったことの根底には、物事を簡単に見極めてしまうことへの抵抗があった。
「活動していたのはみんな賢い同級生たちです。でも彼らはあまりに偉そうにものを言っていた。“こうである”というふうにね。それについていけなかった。僕には、今の世界を正しくないと決めてしまう力はなかった」
中学2年生時の担任の先生の教えも心に残っていた。哲学の話が好きなこの先生から、哲学者であるデカルトやカントの話をたびたび聞いた。とくにデカルトが提唱した命題「我思う故に我あり」から、鵜沼さんは「自我」を強く意識するようになった。ホームルームで大きな模造紙に書いた一文──「……真理とは腹くちくなる。しかしその発見の感動こそ人生のすべてを決定するのだ……」という言葉は鵜沼さんの記憶に刻み込まれ、思想の根底に脈々と息づいた。学園紛争を前に心が揺れたのも、大学入学を前に思い迷い、どのような行動をとったら良いかの判断基準を失ったのも、このことに起因しているように思える、と鵜沼さんは振り返る。
「迷惑をかけない仕事」
物事の善悪について答えをすぐに求めるのではなく、本を読み、人と会話し、自問を繰り返すことを選んだ鵜沼さんは、高校卒業から大学時代にかけて自身の思考を深めていく。いくつもの逡巡があった。
「大学に行きたくなかった。行きたくないというか、こんなに当たり前に大学に行っていいのかと考えていた」
結果として2年間の浪人生活を経て大学に入学、卒業後の就職について思っていたのは「人に迷惑をかけない職業に就きたい」ということだった。社会では、人が仕事することで、誰かが得をし、別の誰かが損をする。たとえ本意ではなくても、仕事に関わる人がよしとして取り組んだ仕事であっても、どこかで誰かを困らせる。必要のないものを押しつけてしまうこともある。鵜沼さんには、そのことへのジレンマが強くあった。選んだのは出版業界だった。
卒業とともに東京・銀座の出版社に入社し、半年後に大日本印刷株式会社に移 る。当時、大日本印刷には、企業史を専門に手がける部署である「CDC事業部年史センター」があり、その部署を紹介されて入社したものだった。1978年、鵜沼さんと企業史の41年にわたる歴史が始まった。
入社間もない時期は、先輩たちに付いて企業との会議に出席したり、ライターやデザイナーなどの制作チームとの打ち合わせに参加したりした。そうして年史制作ディレクターとしての仕事を学ぶ一方で、鵜沼さんは、同年史センターが1972(昭和47)年に発刊した機関紙『ねんりん』の制作作業にも熱心に取り組んだ。
『ねんりん』は、主に入社1〜2年目の社員が編集・制作進行を担当していた。日本経済史の土屋喬雄氏7をはじめとする大学教授の寄稿文のほか、校正校閲や印刷技術、製本技術の解説といった専門的なコンテンツを充実させた同機関紙は、得意先などの関係者ばかりでなく、識者からも高い評価を受けた。
いくつものタッグ
見習いの時期を経て、担当者として最初に携わったのは、富山県富山市に本社を置く北陸電力(株)の『北陸電力30年史』(1982年発刊)だった。この時、鵜沼さんは26歳。北陸電力の編集室長に気に入られたこともあって、10年後に発刊された同社40年史、さらに50年史も担当した。
北陸地方との縁は次々につながっていった。『富山地方鉄道五十年史』(同理念編含めて1982~83年に発刊)、総合機械メーカー不二越(株)の創業者・井村荒喜氏の追想録他、『北陸銀行50年史』(1993年発刊)ほか薬剤メーカー、鉄工業の会社──などの制作に携わり、羽田・富山間のフライトは優に100回を超えた。
「行くと美味しい魚とお酒がいただけて、寿司も美味いところでよくご馳走になりました。作業が大詰めになれば夜中に運転して移動したこともあるし、富山、石川、福井の北陸3県はくまなく回った感覚がありますね」
初の本格的な海外取材は『キヤノン史 技術と製品の50年』(1987年発刊)の時だった。この社史の巻頭は「人間とコミュニケーション」をテーマとし、世界各地の象徴的な写真に監修者・樺山紘一氏8の文章を添えて同社の歴史とともにまとめた。写真は既存のものでなく、キヤノン製のカメラを用いてすべて撮り下ろした。ロケ地はパリ、ローマ、アテネ、カイロ、ニューヨーク、アリゾナ州のグランドキャニオン……ニューヨークでは白昼の五番街で三面鏡を使った特撮を行い、パリではバレリーナのオーディションを実施した。ローマではアッピア街道を走行、エジプトのルクソールの遺跡を見学、グランドキャニオンでは夕闇に浮かぶ月を見た。
「各地で撮った写真は、美しいだけでなく、神秘的な生命力を宿していました」と鵜沼さんは振り返る。32歳の若者にとって、それは初めて接するグローバルな世界の刺激に満ちた冒険の旅路だった。
一方、キヤノンの社史は、制作プロセスにおいても新機軸を打ち出したものだった。当時、社史の制作は、それまでの主流だった社長+執筆担当者2〜3名という体制から、組織対応に向けて脱皮を始めた頃だった。キヤノン史の編纂体制はこうした流れを先取りし、事業の多角化・グローバル化が進んでいたこともあって20以上の部署の代表者で編成されていたと言う。また、同史の編纂は、それまでのキヤノンの個別技術と製品の結びつきを体系的にアーカイブすることも目的としていたため、各部署の配下に調査・編集をサポートするワーキンググループが編成された。この総勢200名ほどの大プロジェクトとして、キヤノン史制作は進行した。
「キヤノンの方々は、製品開発などで組織対応というものを訓練されていました。各グループがキヤノン製のワープロを使って作成した資料原稿が、A4で2,000ページくらいに達したと記憶しています9。膨大な資料の取りまとめ、関係部署との終日に及ぶ打ち合わせのくりかえしなども初めての経験で、すべて実践を通して学習しました。クライアントに教えられ、鍛えられたと言って過言ではなかった」
一方で鵜沼さんは、社史受注を起点としたさまざまな本に関わった。福武書店(現・ベネッセ・コーポレーション)の『福武書店30年史1955-1985』(1987年発刊)をきっかけに、同社の創業者・福武哲彦氏の語録をまとめた『福武の心 ひとすじの道』(1999年発刊)ほかいくつかの制作を手がけた。また、同社の月刊カルチャーマガジン『Between(ビトウィーン)』(1985年創刊)にも、毎号の企画段階から関わった。社史と異なる本を作ることは、その企業を社史づくりとは異なる角度から見ることでもあった。そうした経験もすべて鵜沼さんの糧となった。
「組織」と仕事するということ
企業の出版物を手がけることは、組織を相手に仕事をすることである。性格や気質、個性といったものを「個人」ではなく「組織」のなかに見つけながら、鵜沼さんはいくつもの社史づくりに関わってきた。
「組織というのは、その全体にいっせいに声をかけることができないでしょう。だから、指示系統がはっきりしていて声がきちんと届くような組織づくりをしてもらう努力をします。社史編さん室長や周囲の関係者とたくさん話していて、組織のどこかに動きの悪い場所があれば、資料を提供しながらまた話をして、理想の社史に向かって機能する組織にしていくための方法を実践していく」
そして社史づくりにおいて常に大切にしたのは、「企業の希望に沿う」ことだった。社史はその制作過程において、社内の人たちがそれぞれの立場から自社の過去を振り返る。どのような過去があったから「今」があるのかを考え、過去と現在をもって未来を思う。そのプロセスは、社史制作の大きな意義と言える。
だからこそ、相手の思い──言葉に表現されないことも含めて丁寧にのぞき込み、希望をしっかりと受けとめ、最大限それに沿う社史の有り様を考える。その上で、相手の希望を叶えるためのもっと良い方法を提案することに力を尽くした。目に見えるものと持論から物事の良し悪しを即決する……かつての鵜沼さんがそうした生き方を選ばなかったように、編集者としての鵜沼さんもまた、そうした仕事のやり方はしなかった。どのような相手とも、ゆっくりと時間をかけて心を近づけ、同じ目標に向かうための努力を重ねた。
「もっとこうするともっと良いのではないかという“自分の思い”をどこまで出すか。自分が担当したことの証であり、社史のディレクターの使命でもあります」
鵜沼さんの姿勢は企業側の担当者の心を動かし、時に鵜沼さんの存在そのものがプロジェクトの原動力にもなった。41年のキャリアのなかでめぐり会った相手とのいくつものタッグが、いくつもの社史を世に送り出してきた。
もちろん、どれほどキャリアを重ねても、どのようなアプローチを試みても依頼側の熱意に届かず、社史プロジェクトそのものがおざなりにされるケースもないわけではない。「そういう場合は、失礼のないようにとにかく早く作ってしまおうと思ってね、やるわけです」と笑いつつ、鵜沼さんは言う。
「それでも水準は落としたくなかった。本は形として長く残るものだし、のちのちこの社史は自分が担当したのだと恥ずかしくて言えないようなものは、絶対に作らないように」
DNP年史センター代表として
2000年、大日本印刷(株)が独立した組織として「株式会社DNP年史センター」10が発足し、鵜沼さんは取締役を経て2004年に同社の代表取締役に就任した。当時、東京・大阪・名古屋に拠点を持ち、社員は兼務スタッフを含めると60人強。その代表に就任し、現場の第一線に立つことが少なくなったぶん、鵜沼さんは一歩うしろから、全体を見渡すかたちでフォローを重ねた。そこでは一貫して社員一人ひとりの編集者としてのやり方を最大限に尊重した。
「組織として独立したら、いろいろな面で数字のプレッシャーを受けることになります。当然のことだけれど。うっとうしいなぁと思いながら、それでも数を重ねていくことに意識を向けなければいけない。ものを作る視点から見れば切ない部分はあります。数のために一つひとつを効率化できるわけじゃないから」
それでも、DTPの登場11に象徴される出版物制作における作業のデジタル化が進む流れを捉え、とくにレイアウトにおける作業をスムーズにすることで、クリエイティブな工程──企画・取材・原稿作成・デザインと、クライアントとのコミュケーションに自分たちのエネルギーを費やすことのできる体制整備を行った。
さらに、社史づくりを文化的にきちんと位置づけていくための活動にも、鵜沼さんは大きく貢献した。経営史の専門家を招いて財閥史を学ぶ勉強会を社内で実施したり、企業史に関する講演会やセミナーを行ったりした。さらに、個々の社史の一部のパーツについて経済学者や大学教授に原稿を依頼するようなことを積極的に提案し、実践した。経営史学会への参加によって得た人脈が活きた。
「先生方が書く原稿のなかにある『仮説』を、いろいろな調査によって検証していく。その作業によって発掘される事実は、企業にとっての新しい発見でもあるし、歴史上の新しい発見でもある。そういうことがDNP年史センターの強みになるといいとも思っていました」
社史づくりへの哲学
完成した社史を見る時、鵜沼さんは作り手の視点でその質を判断する。
「まず目次を見て、それから編集後記を見るかな。それから、時代区分がその業種として適切かどうか。あとは創業と、社会背景として大きなポイントになる出来事……たとえば高度成長期や石油危機、バブル崩壊などの前後がどう描かれているかを見ます。企業にとって大切だったポイントをきちんと書いているか、そこに努力がなされているかを見ます。本気で見る時はね(笑)。楽しみとして気楽に読む時ももちろんあります」
不景気によって各社が経費削減を余儀なくされるなかで、社史がその対象になることは少なくない。100周年という大きな節目を迎えても社史を制作しない、という選択もある。けれども一方で、厳しい時代だからこそ、足跡を記録に残し、未来へ向かう糧としようとする会社もまた確かに存在する。正確に綿密に記録を残すことを重視するケースもあれば、「活字離れ」を意識して年若い社員が読みたくなるものになるように工夫を凝らす12ケースもある。これからの時代に理想の社史とはどのようなもので、良い社史づくりとはどのようなものだろう。
「これからね、どんな社史がいいんでしょうね。やっぱりその会社の骨太なところがきちんと描かれているものが良いと思います。読まれるか読まれないかは当然意識してしまうものだけれど、100人いたとして100人に読まれなくていいと僕は思っています。社史が役に立つ人間に対して役立てるものであればいい。そのためには、経営陣が自社の大切にしてきたことを軽んじることなく、自分たちの存在意義がどこにあるのかに目を向けて、そこをとことん重視して社史を作れたらいいと思う」
今日の社史の作り手として仕事をする後輩たちに伝えたいこともある。
「一生懸命やって、相手の会社のことを好きになれるようであれば、かならず面白くなります。直感の好き・嫌いで決めてしまうのではなく、許される範囲で時間をかけて、いろいろな角度から相手を見る。ある意味で、タッグを組むために互いが価値観を合わせていく努力が必要だと思います。でもね、相性もあるから。好きになれない時は、それはもちろん自分の資質もあるだろうけれどそこは諦めて、いくつもある仕事のなかから好きになれる会社を探せばいい。あっ、ここ好きになれそうだ、と思ったら、思い切ってやってごらん、と思います。企業史をまとめるというのは、単にひとつの企業の話にとどまりません。日本とか世界の歴史に着眼しながらひとつの企業を見つめていくことでもある。その経験は自分にいろいろなものの見方を提供してくれるし、たくさんの新しい発見をくれる。なんていうのかな、ひとつ歴史を紐解くことが、自分の開花につながる」
家庭人としては1984年に結婚し、一男一女にも恵まれた。長男には知的障がいがあり、そういうことも含めてすべて奥さまに任せきりにしてきたという。その「恩がえし」をしたいと話す。
「仕事ばかりだったから、遅ればせながら一緒に買いものに行ったり、お風呂に入ったりしています。こういうこともずっと一人でやっていたんだなと思いながら」
それでも、退職間もなく、かつて務めていた企業史料協議会の理事に呼び戻されるかたちで再就任した。社史からの派生で伝記の編集をお手伝いした方からの再依頼も舞い込んでいる。社史づくりによって無数の企業の過去と未来を見つめ、社史そのものを文化として定着させることに貢献してきた人の「役割」は、これからも続いていく。
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