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分けあうこと、分かちあうこと

コワーキング・シェアオフィス運営・坂本純子さん (株)パクチー代表

取材・文/鈴木朝子

 ただただ目立つことの嫌いな、真面目な少女だった。幼稚園生の頃、近所の人に挨拶することが苦手で、けれど生真面目な性格から挨拶しないこともできず、「人に会いませんようにと思いながら歩いていた」。小学校では日直が回ってくるのが怖くて、コンビを組む男の子が入院してしまった途端に学校に行けなくなった。お祖父さんの米寿のお祝いでは、孫を代表して花束を渡す大役をまかせられ、恥ずかしくてうつむいたまま手渡した。
 「やるなら堂々とやったほうがかっこいいのに、と思うんですけどね」
 2014(平成26)年に起業し、いくつもの事業拠点を飛び回り、人が集うあたたかい場所をいくつも生み出している坂本純子さんは、今その内向的な少女を振り返って笑う。

「出し惜しみ」と言われた小さな芽

 1974(昭和49)年、東京都田無市(現・西東京市)に生まれ、間もなく中野区に転居した。両親は娘を、難しいことに挑戦したりリーダーを務めたりすることよりも、きれいにご飯を食べる・丁寧に話す・人に挨拶するなど「きちんと」生きることを大切にしつけた。
 自分に何か特別なことができるなどと考えたこともなかった坂本さんの潜在的な力を最初に活かそうとしたのは、小・中学校時代の先生だった。小学校高学年クラスの担任の先生は、何かに取り組む坂本さんにたびたび「出し惜しみするなよ」と声をかけた。中学1年生の夏休みには、地元の夏祭りで偶然会った先生に「後期の学級委員、頼むな」と告げられた。先生は、坂本さんがためらうたびに「おまえならできるよ」と語りかけた。両恩師の言葉は、今も坂本さんを支える。
 成績も良かった。300人以上の学年でたいてい一桁台を維持していた。それでも、自己評価が低いことは変わらなかった。
 「1位2位になれる人ってやっぱり天才で、自分は努力して取れるところまでは取るっていう気持ちだっただけです。3つ下に能天気な弟がいて、しっかりしていて勉強もできるお姉ちゃんというのを全うしなければいけないと思い込んでいた」

ひとりぼっちの転校生

 坂本さんにとって忘れることのできない数カ月が中学3年生の時に訪れる。
 両親が埼玉県狭山市に家を購入し、引っ越しとともに転校することになった。都心から離れた転校先では、幼稚園から中学校までをほとんど一緒に過ごしてきた子どもたちでコミュニティが完成されていた。東京から来た成績優秀な少女──の存在を、周囲の子どもたちはどう受け容れて良いか分からなかった。
 初日に話しかけてくれるクラスメイトは皆無、自分から声をかけてみても会話は一往復で終わった。音楽や家庭科などの授業では広い校内を移動しなければいけないのに、いつも取り残されて迷子になった。助けてくれる先生もいなかった。
 そんな環境を、心配をかけたくなくて両親には話さなかった。学校に行かなければ高校に進学できない、そう思って不登校にもならなかった。
 「下を向いて歩いた通学路、今でも憶えています。せっかく早く登校しても自分の席に座っているだけで、そこから見ていた教室の景色も」
 そんな状態が続いた数カ月ののち、坂本さんは自分から状況を打開しようと考えた。
 「こうなりたいという理想があるのなら、自分から動いて、だめならまた違う方法を探すということをしなければ、いつまでも物事を人のせいにして生きていくことになる」
 懸命に話題を探し、何度も話しかけているうちに、状況は次第に変化した。周囲が戸惑っていただけだということもわかったし、友達もできた。「それにしたって理不尽だった」と笑いつつ、その時のことが今の自分の原点かもしれないとも言う。

人はひとりでは何もできない

 女子高校への進学とともに、苦しかった中3の時代に別れを告げる意味もあって、坂本さんはこれまでやらなかったことに挑戦しようと考えた。部活動紹介でミュージカル部が上演した「アニー」に感動、希望者が殺到したために行われたオーディションで、自分を一生懸命アピールして入部を果たした。高校2年生の時には「掠奪された7人の花嫁」で主役のアダムを演じた。
 「どんなことでも、これからは自分を主張してきちんと生きていこうと思っていました。マンモス校だったからすぐに埋もれてしまうし、違うと思うことは違うと言って、自分の力で変えられることは変えていこうと」
 校内には派閥があり、仲間外れもあちこちで起きていた。課外活動に取り組む時には、グループ分けで外れた人と組んでいちばん面白いことをしようとした。お弁当をひとりで食べている人がいれば、隣に移動して一緒に食べた。ひとりぼっちの転校生だった記憶も手伝っていた。
 「いろんな立場が理解できたから……人が好きなんですよね。それに、どんな理由があってもひとりは寂しいものです。大勢のなかで誰かがひとりぼっちという状況は作りたくなかった」
 坂本さんはいまでも、街中で困っている人を見かけると通り過ぎることができない。電車内で路線図を見つめている外国人には必ず声をかける。重そうな荷物を抱えた高齢の女性に「大丈夫ですか?」と声をかけて「大丈夫です」と返されてしまい、「質問なんてしないで“持ちます”って言えばよかったなって反省した」。ある時には、地面に寝転がって駄々をこねる幼児と困り果てたお母さんを見かけ、「抱っこしてあげる! おばちゃんちの子になろうよ!」と手を伸ばした。
 「それはもうピッと泣きやみましたよ。いきなり“おばちゃんちの子”って(笑)」
 結局、人はひとりでは何もできない。声をかけることで何かが動き始める。誰かが何かを始めることで、その動きが周りにも広がっていく。坂本さんの心にあったその発想は、自身もまだ無意識のところで、のちに設立する会社の事業となるコワーキングの精神とつながっていた。

大きく外れた未来予想図

 高校卒業後、とくになりたい職業もないまま大学に行こうと考えたのは「真面目だったから」で、興味のあった経済・経営系の学部を受験した。しかし四年制大学のすべてに落ち、大きな挫折感を抱いたまま短期大学の社会学部に進学する。短大での勉強そのものは楽しかったけれど、気持ちはすさみ、家庭では19歳で初めて反抗期になった。
 「逆らったこともなかったのに、何もかも父が悪いみたいな気持ちになってケンカばかりしていました。父娘の諍いばかりで母も泣いて。毎日飲み歩いたり、家に帰らなかったりしました。家のことも、自分のそれまでのことも、みんな嫌になってしまっていた」
 そして坂本さんは、アルバイト先で出会った年上の男性と結婚することになる。おなかには赤ちゃんもいた。予定していた大学への編入も取りやめ、坂本さんはご主人の地元である千葉県千葉市で生活を始めることになる。
 “できちゃった結婚”に対する世間の目は今より遥かに厳しかったし、ずっと優等生だった坂本さんの人生の展開は、周囲はもちろん本人にとっても想定外だった。1990年代後半、学生時代の友達は大学に進学して企業に勤め、ボーナスで海外旅行に行ったりブランド品を買ったりして豊かな生活を楽しんでいるように見えた。
 すでに折り合いの悪かったお父さんを説得する術はなく、「あなたは、最後は自分で決めるんでしょう」と理解とあきらめが半分半分のお母さんの言葉に背中を押されて、坂本さんは家を出た。
 「でもそこで」と坂本さんは言う。
 「そこで、真面目な自分、真面目を演じていた自分を全部捨ててくることができました。おなかにいる子どもをあきらめて、大学に行って、いいところに就職して……という表向きに綺麗な道よりも、これは自分で選んだ道なんだと決めることができた」

お母さんたちのためのイベント企画

 21歳で母親になった坂本さんを、試練が襲う。生まれたばかりの赤ちゃんが体調を崩し、生後10日に大学病院で手術を受けることになったのである。命にかかわるものではなかったものの、家族が皆駆けつけた。そのなかに、仲違いしたままのお父さんもいた。久しぶりに会話を交わす娘に、お父さんは心のうちを伝えた。
 「そんなふうに、代わってやりたいって、自分の命よりも子どものことが大切だって思う気持ち、分かっただろ。おれもそう思ったんだ。おまえを二十歳そこそこで茨の道に出すのが、父親としてどうしても嫌だったんだ」
 翌年、次男が生まれる。社会に出て働きたかったものの、長男の体が弱かったこともあり「今は子育てする時期かな」と坂本さんは考えた。そこで、子どもと地域に役立つことに取り組んでみようと思いつく。子育て中のお母さんたちが、地域や団地・社宅といったコミュニティの垣根を越えて集まることのできる場を作ろうと考えた。定期検診で会うお母さんたちに声をかけ、年子の育児の合間に作ったチラシを渡した。市内のコミュニティセンターの大広間を借り、母親同士が交流できる会を数回にわたって企画した。
 「ここで出会って友達を作ってくれたら嬉しいし、一度だけでも来て好きな話をして、元気になってくれればいいなと思ってやっていました」
 一方でお金を稼ぐことも必要で、次男が小学校、のちに生まれた三男が幼稚園に通い始めたころに坂本さんはパートタイムで仕事を始めた。ホテルサービスの派遣会社に登録し、フロントやクローク、客室サービスなどを担当した。
 ホテルのあと、自宅に近いスポーツ施設のフロントで勤め始め、数年後に東日本大震災が起きた。人的被害は少なかったものの、坂本さんの自宅や勤務先があった地域では液状化が深刻だった。配管異常からスポーツ施設は一時的に営業を停止し、パート・アルバイトから順に「有事により自宅待機」が言い渡された。事実上の解雇に近かったという。
 しかし、数年間一緒に働いてきた仲間との縁は切れなかった。震災後の混乱が落ち着いた頃、お互いを心配して連絡を取り合った。そうして集まった仲間の一人の男性に頼まれて、坂本さんは、彼が勤める会社のパソコン教室出店・運営をサポートすることになる。

「株式会社パクチー」誕生・「SHI TSU RAI」オープン

 そして2013年の年末、坂本さんはパソコン教室をともに運営していた男性から独立を持ちかけられた。彼は勤めていた会社でパソコン教室運営と並行してウェブ制作部門も担当しており、その顧客を引き継いで新しいウェブ制作会社を立ち上げる計画だった。
 坂本さんはこの提案に乗り、スポーツ施設でやはり一緒に働いていた20代の男性も誘って、3人で起業することになった。代表取締役も引き受けた。
 拠点である千葉市には、中小企業のサポートや起業支援を行う「ビジネス支援センター」1があり、坂本さんたちはそこを訪れて起業相談を重ねた。そして2014年7月、同センターを仮の拠点として、ウェブ制作をメイン事業とする「株式会社パクチー」の登記が完了する。
 ウェブ制作という事業から、事務所はどうしても必要なものではなかった。カフェなどで集まって打ち合わせして、顧客先を訪問し、スカイプなどでやり取りをすれば、案件を進めることはできる。それでも坂本さんたちは事務所を持ちたいと考えた。「人ありき」を社是に掲げた会社として、人が集まる場所はどうしてもほしかった。
 「でも、駅から近くて立派な事務所を借りたとしても、ウェブ制作の仕事が増えるわけではなくて、良い物件は経営的にはマイナスでしかない。そこで、コワーキングの存在を知ったんです」
 本社をコワーキングスペースにすることで、収入を確保できるとともに、事務所は人が行き交い、出会う場所になる。それは、坂本さんには願ってもないことだった。人と人が出会い、小さなつながりがやがて大きな動きになっていく────学生時代や子育ての真っ最中に坂本さんがさまざまな場所で実践してきたことが、いよいよ大きな舞台で行われることになった。
 3人は、当時コワーキングが盛んだった大阪を視察した。訪れたコワーキングスペースは、いずれも単に「作業するためのスペース」ではなく、かといって「居心地の良いカフェ」とも違った。そこには確かに人の存在が感じられた。漠然とした理想像を追いながら、坂本さんたちは千葉に戻って物件探しを本格的にスタートした。
 千葉市の中心部にある大きな駅の近くを条件に探した。ビジネスエリアである海浜幕張駅は、大手企業が会議室を運営しているケースが多いため入り込めず、歴史の古い住宅地である稲毛駅では理想の物件が見当たらない。そこで、坂本さんの地元である稲毛海岸駅周辺に絞ることになる。そうして出会ったのが、稲毛海岸駅徒歩3分・商業施設が入居するビルの3階のスペースだった。オーナーが年に数回のみ貸スペースとして貸し出していた場所で、場の利活用に関心のあったオーナーは坂本さんたちの申し出を快諾した。
 2014年11月、株式会社パクチーは本社を現在の場所に移し、コワーキングスペース事業をスタートさせた。物件のオーナーがつけていた名前────利用してくれる人のために整える=「設える」という意味の「SHI TSU RAI(しつらい)」を坂本さんが気に入り、そのまま引き継いだ。

地域に足りないものを

 最初の10日間、お客さんはほとんど来なかったと言う。コワーキングという名称が浸透しておらず、宣伝しても「これなに?」という反応ばかり。スタートアップ支援、働く女性の支援、起業家の輩出などをビジョンに掲げていたが、「そもそもこのあたりに起業家いなかった(笑)」。フリーランスはいたが、都内にシェアオフィスを借りているケースが多かった。会社の少ない住宅地────そもそもターゲットの少ない場所で事業を始めたことに、坂本さんたちはようやく気付いたという。
 そこで、とにかく人に来てもらうことを考えた。オープンを祝って身内でパーティーを開き、知り合いを招待した。地元を大切にするために、ビル間近にある大型スーパーマーケットではなく個人商店の酒屋さんにお酒を発注した。ビールサーバーが運良く(?)爆発し、酒屋さんの代表が謝罪に訪れたタイミングで「なにか一緒にやりませんか」と持ちかけた。店主を講師としてワイン会を主催し、日本酒の会・焼酎の会などの開催に展開させていった。人との間に垣根を作らず、相手の魅力を見つけ引き出すことに長けた坂本さんの性格が、人と人を次々につないだ。会に訪れた人たちが、同じ趣味を持つ人と出会ったり、同じ職種の人と語り合ったりする場面がいくつも生まれた。
 子育て世代が多い地域でもあり、保育園の仲間でパーティーができる場所を探しているグループに貸スペースとして事務所を提供したこともある。ケーキやピザを持ち込んで、小さい子どもや親たちが楽しそうに過ごす様子を見ながら、坂本さんは思った。
 「あ、違った、と思って。“スタートアップ支援”なんてガチガチに考えていたけれど、まず地域に足りないものを提供して貢献することがこのスペースの役割だって気づかされました」
 主催するイベントとコワーキングの相乗効果が生まれることは、スタートから3年間はほぼなかったと言う。それでも、「SHI TSU RAI」の名前はさまざまなかたちで広がり、同時にパクチーの事業も拡大していくことになる。

奪い合うのではなく、分かち合う

 2016年3月、起業時にお世話になった起業支援施設「CHIBA-LABO(チバラボ)」の運営を受託、翌4月には「みんなの経済新聞ネットワーク」3運営元と提携し、ビジネスとカルチャーを中心に地元・千葉を楽しむ情報を伝える『千葉経済新聞』を発刊した。2017年11月には、百貨店「そごう千葉店」内でふたつめのコワーキングスペース「コトコトコワーキングスペース」4を開設した。そごうの担当者が、コワーキングスペースを営む埼玉県の大手企業を訪れたところ、「それは地元の人がやらなければいけない。うちではなく、坂本さんのところに行ってください」と話してくれたことから始まったと言う。
 そして、千葉県からの提案で、2017年に県内の廃校の利活用プロジェクトに取り組むことになる。幾つかの廃校を視察したのち、勝浦市立清海小学校の旧校舎を「シェアキャンパス清海学園」5としてオープンさせた。閉校間もない時期で建物の状態が良く、目の前に海岸が広がる立地と勝浦市の熱意が大きな決め手だったと言う。
 「SHI TSU RAI」で学んだように、スペースの特性を打ち出して人を呼ぶことに努め、地方活性化のために働く人のワークスペースを提供し、起業家向けのセミナーのほか、キャンプやバーベキューなどのイベントも開催している。2019年夏には、盆踊り大会を予定。「ようやく地域の方々に来ていただける」と坂本さんは話す。この事業にはとくに、坂本さんの社会に対する思いが色濃く反映されている。
 「今、社会は良いほうにも悪いほうにも変わっていると思います。そのなかで、完璧が素晴らしいわけじゃない、上を目指すことだけが一番というわけじゃない、という発想が生まれてきている。働き方も、正規に雇用されて規定時間をきちんと働ける人がベストなのではなくて、時間の半分を介護や育児に取られた人も、自分の仕事に自信を持てるようでなければいけない」
 この思いは、コワーキングスペース運営の根底にあると同時に、地域活性化に関する事業に取り組む原動力でもある。
 「弱くていいし、ダメなところがあっていい、たくさんできなくてもいい。互いに認め合って力を持ち寄ることが、人が少なくなるこれからは重要だと思います。人が減っていくのは止められず、地方に住む場所を作って移住・定住を促しても、結局人を奪うことになっている。住む場所として人をつなぎとめてしまったら、力があってパイ(母集団)を抱え込む場所か過疎地のどちらかになってしまう。それでは争いの構図……“強い・弱いの構図”になってしまう。そうじゃなくて、たくさんの地方がそれぞれの価値を上げるために努力して、人がいろいろな地域を移動できる、つまり人を奪い合うのではなく分かち合う社会になったらいいと思うんです。そのために自分のできることを、模索し、見つけ、実践していきたいと思っています。ひとつひとつ」


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