作品を「消費」できなくなったかもしれない話

3月の頭から平日を全て研究室で過ごすようになった。毎朝10時まで寝て、支度をして11時に家を出る。寝るのはだいたい深夜1時で、遅いときは終電で帰るときもある。土曜日は授業、日曜日はアルバイトでとにかく時間がない。「何もない」という日が一日もない。

この生活の中では、当然ドラマや新作映画などを観る時間も確保できない。以前なら週に何本もドラマを観て、好きな時に好きな映画を観に行くという贅沢な時間の使い方ができていた。そして、「当たり前だ」と思われるかもしれないが、それは全く苦ではなかった。

そんな中、たまたま「何もない」日がやってきた。喉から手が出るほど欲しかった休日だ。数年前からウォッチリストに入りっぱなしの『大豆田とわ子と三人の元夫』を再生した。

第1話を観終えた後、以前の私ならそのまま第2話を再生していただろう。ところが私は満足してしまって、他の作品はないか探し始めた。『カルテット』も前から観たかったな、『サンクチュアリ』が面白いらしい、など物色するが、再生ボタンを押すことはない。見たかったはずの作品も、「今はいいかな」と思ってしまう。

見たいたいのに、見たくない。
矛盾した状況に困惑した。あんなに時間が欲しかったのに。あんなに見たかったのに。

私は自分なりに理由を考えてみた。

人間が行う行為の中には、インプットとアウトプットがある。以前の贅沢な生活には、インプットしかなかった。映画を観に行ったら、そこで終わり。友達と観に行った場合は帰り路に少し作品について話すが、表面的なものに終始してしまう。

今の研究室生活では、アウトプットとインプットを同じくらい行っている。自らの研究を進める(アウトプット)と同時に、教科書や論文を読んで知識や最先端の研究の動向をチェック(インプット)している。そしてこのインプットは、あくまで自らの研究に活かすため=アウトプットのためだ。

私はこう結論付けた。研究室生活に順応した結果、アウトプットを前提としないインプットを受け付けなくなってしまったのではないだろうか。
アウトプットを前提としないインプットは、「消費」と換言できる。私は、作品を「消費」できなくなったのではなかろうか。

この仮説と符号するようなことが一つある。私は映画についての授業を取っている。5人の教員が持ち回りで各回を担当し、担当の教員は、自らが呼んだゲストスピーカーと対談をする。その対談で扱われる作品は、授業前に「参考上映」として教室で上映される。私は映画に明るくないので、参考上映される作品やゲストスピーカーの方は知らないことが多い。しかし、参考上映は毎回とても興味深く鑑賞できるのだ。その理由が、毎回授業後にリアクションペーパーの提出を求められるためだとすると、上の仮説と合致する。

何であれ、私はおそらくただ作品を消費することはできなくなってしまったのである。
それならば、と思いついたのが「見た作品すべてについてリアクションペーパーを書いてみる」という試みである。
ちょうど先日、とある映画監督から「若いうちは質で選んでないで量を見ろ。そして感想を書き残せ」というお言葉も頂いたことも重なって、やってみることにした。

まずは、ちょうど今配信中のドラマ『シークレット・インベージョン』の感想記事を書いてみようと思っている。

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