ステートメント(なぜ「青空教室」なのか)

「青空教室」は、基本は対談を載せていくけれど、おそらく一人で書いたものを載せることもありえる、ただブログとも日記とも言えない、Webマガジンというにはあまりにゆるいものになるので、ただ細く長く、テキストを載せる場所、として作られています。ここでは、なぜこの名前にしたのか、について書きます。

まず、「青空」は外、「教室」は内、をあらわしているとしてみる。
青空の下にはない権威や規律が教室の中には存在しうる。
これから、ここではおそらく2人以上の人間の対話が行われることになる。その時、ある人物が教室=規律となると別の人物が青空=自由を主張し、また別の時にはその役割が入れ替わることになる。時には皆同じ立ち位置となるかもしれない。
そのような、緩やかで曖昧な振る舞いをすることも許される言葉/空間として「青空教室」を使いたい。

矛盾するものが一つの単語/空間に収まっている。外なのか内なのか、わからなさがある。その場所はどこなのか、明確に指し示すことができず、境界、境目を見つけることもできない。
これはただの言葉だ。だが、定義しづらく、しようとするとそこから逃げるような運動が潜んでいる。また、空間のことでもあるが、区切ることができない。原則どこでも青空(の下)であり、教室(の中)であるから。
意味を持った言葉であり、動きであり、静止する空間である、と言える。

そして、教室には、先生がいない、生徒しかいない時もある。
そうなると、時には生徒たちが、教える側と教えられる側に分かれて、お互いに教え合う場にもなる。
つまり、実は教室の規律とは流動的なものだ、ということ。頻度は低いかもしれないが、一方的な教えるー教えられるの関係だけしか成立しないとは限らない。

「教室」のその潜在性、ポテンシャルを引き出すものとして「青空」を配置させる。
「青空教室」を、「青空」という概念によって「教室」という空間をこじ開け、扉を開け放ち、無理くり外へ連れ出す、という、一種の運動性を含む言葉として再定義すること(しかしそれは再定義ではなくて既存の研究とかでありうることかもしれない、なので先行研究を追う必要も今後出てくるかもしれないが、一先ずここでは再定義とさせてください)。

青空教室はどこであってもよい。そこでそう宣えばそこ(空間でも非空間でも)が青空教室となる。
誰がいてもよく、先生と生徒、の区別もない。通行人が生徒になり、先生になる。止まる必要もない、歩き続けてもよい。どこで終わっても、始まってもよい。

以上、こうした意味合いに過度にひきずられないようにはしつつも、最終的には矛盾するものが矛盾するままに共存することをよしとする世界を肯定する論旨を展開したいと思っています。

最後に、偶然性に奉仕するために、今読んでいる本から引用して終わります。

もういい加減いい歳なんだから、肯定的な、そういう力に奉仕するような、自分もその一部分にならなきゃいけないんだというのは、やっぱり三十代の半ば過ぎぐらいからすごく感じ始めてたんですよね。(『金太郎飴 磯崎憲一郎 エッセイ・対談・評論・インタビュー 2007-2019』p80)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?