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「被害者」をやめないと人生は前に進まないという話と、とはいえ復讐はスッキリするよねという話

日々の仕事の中であった印象的な相談と、それに伴い考えたこと、やってみたことを、久々に文章を書いて残しておきたいと思う。
なお、前半の事例に関しては本人や関係者が読んでも特定できないよう改変を行っていることをご留意いただきたく。


「被害者」をやめないと人生は前に進まない

長く診ている30代の男性からの相談だ。彼はかつて学生時代にひどい虐めに遭い、重度の後遺症が残ったため紹介されて私の診察を受けていた。
最近になって彼はこう訴えた。
「症状はよくなってきたけれど、怒りや憎しみが晴れない。長い間苦しんだし、仕事に就くこともできず、人生を壊されてしまった。加害者に謝罪をさせたいし、学校に虐めの認定をしてもらい学校からも謝罪を受けたい。第三者委員会の立ち上げや裁判も進めているが思うようにいかない。どうすればいいのか」

彼は集団でのいじめを受けて何年たった後もフラッシュバックや過覚醒,噴出する怒りや対人恐怖や安定した人間関係の構築に悩んでおり、職も友人もそうした症状から得ることが困難だった。
そんな彼も長きにわたる治療と彼自身の努力からそうした症状のコントロールが人なみにできるようになり、徐々に人生を前向きにとらえることができるようにはなっていた。

症状が落ち着いてくる少し前から、彼は弁護士に相談していた。司法に提出する診断書を私が書いたこともある。
自信の受けた被害に対して、加害者になんらかの贖罪を求めたり、司法を含む第三者にその被害を認めてほしいと願うことは、当たり前の感情だ。ないがしろにされてきた被害が公に認められることで解きほぐされるものは多くあるだろう。
そうしたプロセスを経ることで、自身の新しい人生を歩んでいけると考えることはもっともであるし、一般的にそう捉えるひとも多い話だと思う。

しかしその彼は既に弁護士に相談して数年経つが,進捗がほとんどない状況である。
長く診察している身としては、本人に起こっている後遺症は本人の訴える出来事から生じたであろうことは蓋然性が高いが、長い時間が経っており、証拠も少なく、学校関係者は保身に走っているため本人の望む状況へはまだまだ遠いのが現状である。こういったままならない状況もよくある話ではある。

それでもなお、本人と彼のほかの周囲の支援者たちは、加害者や学校関係者に認めさせるために気炎をあげている状況であった.

私は少し考えた。
彼はそろそろ人生を前に進めなければならない時期にいるからだ。

過去の事例と今回のケースの詳細を見るに、彼が思い描くような、いじめ加害者が反省し心からの謝罪をしたり、学校がいじめ認定する、ということはあと何年戦っても難しいであろうことは察していた。
また、彼の望む謝罪を受けたとしてもそこから彼の人生が反転してすべてがうまくいくなんてことはあり得ないこともわかっていた。

彼はいい年になるが職歴も自身の収入もなく、友人もいない。
彼自身にも就職や友人を作ることに支障が出るような症状はもう目立たず、小さい目標からチャレンジしてみてなにか支障があったとしてもそれを課題として成長していけばいいだけのことだった。
アルバイトから始めたり就労支援を利用しつつ、ひとと関わる場に顔を出して、傷つきながらも少しずつ安定した他人との関りを増やしていくことが、彼を「被害者」をやめて自分の人生を生きることには必要だと思ったし、もうそうした試みをしていい段階にあると思っていた。

ところが、彼は学校の対応や第三者委員会の調査の結果が思うようにいかないときや弁護士との話し合いをするときに、一番調子の悪い時の彼に戻ってしまうのである。
加害者が憎くて憎くてしかたなく、そのつらさを汲まなかった教師や親たちへの感情が噴出する。
そして、彼らが自分に謝罪をしさえすれば、就職も友人もできるのにと嘆くのである。
普段の彼は穏やかで落ち着いた青年なのだが、少ない行動のリソースの多くを 復讐に向けてしまうし、自分が今何もできないことを全て過去の被害と周囲のせいにしてしまう。
もちろん彼が何もできなくなってしまったのは理不尽な被害のせいではあるし、そうした強い怒りも治療対象ではあるのだが、それでも立ち上がって前に進む責任は彼自身にあることもまた、理解してもらわねばならなかった。

深刻な被害経験は人生をまるごと覆いつくしてしまうことがままあるが、そうした被害経験から立ち直れる一握りのひとはどういうひとか。

それは「被害者」をやめられたひとである。
ここでいう「被害者をやめる」というのは、自分に起きた理不尽とそのうまくいかない人生を「加害者」や他人のせいにするのをやめることである。
加害者や自分の苦しさを汲まなかったひとたちへの憎しみや怒りや屈辱を手放し、そうしたエネルギーを自分のために向けることができるようになり、自分の人生を自分で決めてコントロールできてはじめて、他者に支配されず、自分の人生を舵取りすることができるようになる。
自分の被害は加害者のせいである、という当たり前の認識を手放していかないと、被害から解放されないのだ。

冒頭の彼が何年もかけて社会的に公的に被害が認められることはそうした「被害者」をやめるよいきっかけになるだろうが、それを待つことは今回のようなそれは報われないであろう裁判ととても相性が悪かった。

彼にはどこかの段階で自分の意思で「被害者」をやめることを決意する必要があること、裁判でいい結果が出てほしいのはもちろんだがそれを待たずに、並行して少しずつ彼自身の人生も前に進めなければいけないことなどを伝えた。
反応は良好ではあったものの、彼が今後どういった選択をしてくれるかはまだわからない。どういった形であれ彼の人生に平穏と、社会や他者との安定した関りができるようになる未来が訪れることを願うばかりであり、今後もそれを促していきたいと思う。

*  *

とはいえ、復讐ってすっきりするよね

さて、ここまでは長い前置きだ。

私のようになんらかの被害者に対する支援を行っている人間というものは、往々にして自身も何らかの被害を受けているものである。
以下は普段えらそうに「被害者」をやめるべくひとに勧めている人間が、思い切り「被害者」として振舞ってみた、という記録の話だ。
つまるところ、復讐の話だ。

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