日本人はもはや衆愚である

誰も声を大にして言おうとはしないので言わねばならない。

 日本人はもはや衆愚である。

本当はこのようなことは言いたくないのだが、そろそろ声を大にせざるを得ない。日本人は間違いなく衆愚である。端的に言うとバカなのだ。
しかし、これを言うと決まって「お前は一体どれだけ賢いつもりでいるのか」と怒り出す人間が現れる。
それが既にバカの兆候である。

俺の頭の具合が日本人のバカさ具合と一体なんの関連があろうか。
俺が賢人あろうがバカであろうが、バカはバカに変わりない。

これについて、なにか反論があるだろうか?

「お前がバカだったら、お前の言ってることは間違っているかもしれないじゃないか」

なんて思った人間はいるだろうか?
いたとすれば、それが既にバカの兆候である。

俺はまだ「日本人はもはや衆愚である」としか言っていない。
その理由すら述べていない状態で、バカだの賢いだの正しいだの間違っているだの、駆け足で結論を出す時点で、己がバカであることを自覚するべきである。

俺がバカであろうと壊れていようと、そもそもそれが記事の内容の正誤を決定づけるものではない。壊れた時計であっても1日に2回は正しい時刻を指すのである。この記事が正しい時刻を指しているかどうかも、まずは全て読んだ上で結論を出さぬことには、その結論は例え正しくとも間違っていようとも、不完全である。


しかし、そうすると読者たちは、どこの馬の骨とも知らぬ有象無象が書いた、読む価値があるかどうかも分からぬ長文の記事の為に、有限の時間と気力を消耗させなければならないのか? 全く興味を唆られぬ映画を無理やり見せられるような徒労感に包まれながら、この記事を読み進めなくてはならないのか?

それを強いることは流石に歩み寄りに欠けると思われるため、せめてこれから述べることの品目くらいは並べることにする。

 ・日本人が衆愚である理由
 ・政府が最も恐れること
 ・衆愚化を防ぐ方法


日本人が衆愚である理由

日本人が衆愚である理由は、日本人が未だに自分たちの住む社会の「正しさ」を信じているからである。

今の日本は高いレベルで秩序が保たれているといえる。もちろん犯罪がないわけではないが、少なくとも暴力によって国家が転覆するような事態は起こっていないし、時々起こる政府デモも実に大人しいものである。フランスのイエローベスト運動や、香港の逃亡犯条例に関わるデモと比べてみても、日本人は公権力に対して従順である。

日本人が公権力に対して従順であるのは、公権力が正しいと思っているし、もし間違っていたとしても、自分たちが公権力に摩耶化されることなく、いざとなれば自分たちの主権を使って、制御出来ると考えているからである。
「もし政府が私利私欲に走って国民のためにならないことをするならば、選挙でそのような為政者を排除するための主権を日本人は持っているし、今は些末な不正はあれども、政府は大きな背任はしないであろう」という考えが芯に棲みついているからなのである。

自分達が持つ不動の主権と政府に対する全幅の信頼、多少の歪みを孕みながらも日本の社会システムはうまく回っているという認識の甘さ。
日本人は、自転車で下り坂へ漕ぎだそうとしているにも関わらず、ブレーキが壊れていることに気づいていないのである。そして、未だに自分たちの意志でブレーキを握ることができて、そのブレーキが効くと信じこんでいる。

それこそが、日本人が自分たちの住む社会の「正しさ」を信じている証左に他ならない。

 日本社会は正しいであろうか? 
 きちんと自分たちでブレーキを握れるだろうか?

それは不可能である。
なぜなら日本人は主権も民主主義も持っていないのだ。
それは次のことからも明らかである。

日本人は「自分たちの主権と自由意志によって今日の政治家が選ばれて、今日の政府が成り立っている。これは民主主義の結果である」と思っているが、今の閣僚の家系図を見たことがあるだろうか。

「自分たちの主権と自由意志によって今日の政治家が選ばれて、今日の政府が成り立っている。これは民主主義の結果である」にも関わらず、不思議なことにそこにいる政治家の殆どが、過去の政治家もしくは大企業の親族ばかりである。

それらの者らは長年にわたって、日本社会を支配し、国民に重税を課し、既得権益を貪り、何度も欺き、大地を汚染し、日本をここまで凋落させた張本人たちである。

これは日本人が主権を行使し、各々の自由意志で政治家を選んでいたならば、確率的にも絶対に起こり得ないことである。

しかし、選挙では確かに日本人が主権を行使し、各々の自由意志で政治家を選んでいたはずである。
では、なぜそのような偏りが生まれているのか?

それはまるで、流れる水が水路に沿って田畑へ向かうように、政府がそうなる「仕組み」を構築したからである。(その「仕組み」については、「政府が最も恐れること」で述べていきたいと思う)

そうして日本人の主権は彼らに操られて、実態としての主権は政府に移っているのである。

ところで、読者は真実だけで人を欺く方法があることを知っているだろうか。どのようにするかというと、「建前のみ」を教え、実態を教えぬことである。日本の主権と民主主義もそうやって建前のみを教え、 日本人を欺いてきたのである。

教師は教壇に立ち、生徒に「日本は民主主義国家であり、主権は国民にある」と教えている。これは憲法にも明文化されている紛れもない事実であり、決して嘘ではない。

しかし、それは建前に過ぎず、先程も述べたように実態は政府に主権があるのである。
教師がたとえ「それは建前であり実際の主権は政府にある」と思っていても決して教えることはない。そんなことは当然、教育要領に載っていなければテストにも出ない。もし、そのようなことを教えたり、テストに出そうとするならば文部科学省が黙ってはいないし、何よりその建前を信じて生きてきた日本人が許さない。ちょうど悪質な情報商材のセミナーに行くと周りにサクラがたくさんいて、それらによって否定を許さない雰囲気が作られるように、「政治的中立性」の大合唱が始まり、実態に触れることは出来ないであろう。

こうして日本人が持つものは、政府が散々に食い散らかしたあとの残肴のみとなってしまった。もし、この食べ残しの権利を掲げて「俺達には主権がある」だの「民主主義によって今の政府が選ばれた」だの宣うのであれば
日本人はまさに衆愚と呼ぶにふさわしい存在であろう。

政府が最も恐れること

それは北朝鮮のミサイルでもなければ、中国の覇権でもなく、韓国による過去の戦争責任の追及でもない。むしろ、それらは政府が日本人を衆愚たらしめる格好の具材である。

政府が本当に恐れることは、日本人が衆愚でなくなることである。とどのつまり日本人が持つべきはずの主権を政府が持っているということを、日本人が認知することである。

これは即ち、左右の対立が上下の対立へ移行することを意味する。
上下の対立は政府にとって最も厄介な問題である。

それは前に述べた政府の成り立ちから言って、自分たちは上であるにもかかわらず上としての立場を取るわけにもいかず、どちらの味方とも表明できないうえに、下が強くなれば強くなるほど、自分たちが持つ実態としての主権が危うくなるからである。

であるが故に、政府は上下の対立構造になることを何よりも恐れ、日本人の衆愚化にむけた水路の構築に、全力をもって取り組もうとしているのである。ではその日本人の更なる衆愚化に向けた仕組みとは一体何か?

 それは右傾化である。

政府がどのような悪政をしようと汚職をしようと、彼らが実態としての主権を維持するためには、決して日本人の目を覚ますことなく、衆愚のままにしておかなければならない。そのためには、上下の対立構造以上に、左右の対立構造を深める必要があり、日本人の右傾化が必要なのである。

では、右傾化させるために必要なことは何かというと、敵対国家の設定と日本賛美である。この二つを操り人形のようにうまく使いこなすことで右傾化を促していくのである。

そして、政府が目指す最終形態は国家神道の復活である。
日本の衆愚の中でも、とりわけ愚かで救いようのない者たちが信仰するこの神道への参加は、驚くほど敷居が低く、神社を敬い日本賛美をしていれば良い。
故に取り込まれやすく、彼らが自分の経験以上に日本を賛美しようとして、やれ八百万の神々だ、やれ大和民族だと喚いているうちに、いつの間にか神道に取り込まれているのである。彼らの中には神道の読み方すら知らぬものも大勢いるであろう。

そして、この日本賛美こそ、政府にとって最も都合が良いのである。政府が日本賛美をしている間は、無条件に彼らから支持を得ることができ、どのような悪政や汚職も彼らの手によって正当化されるか、或いはなかった事にされる。彼らの行動原理は「政府は日本を賛美し、我々日本人の誇りを大切にしてくれる。だから我々は政府を支持するし、政府を批判するものは反日である」というわけである。

しかし、彼らが宣う日本人の誇りとは一体何であろうか。
十代の子供を洗脳して戦地に送り込み、玉砕させたことであろうか?
散った彼らの命を、生き残った者たちが美辞麗句を並べながらくちゃくちゃと咀嚼することであろうか?

まさに玉砕を命じた者どもの末裔が、今の日本の主権を握り、日本人を掌握している今、日本人の誇りなど一体どこに存在しうると言うのであろうか?

それに気づきもせず快感だけを求めて日本賛美を繰り返す彼らを、日本の衆愚の中でもとりわけて愚かであると断ずることに、些かの疑問の余地を挟むことも不可能ではなかろうか?

しかし、彼らがこのまま更に勢力を伸ばせば、かつてのように国家神道は完成するのである。そうすれば、たとえ中学生に玉砕を命じようとも政府は安泰である。両親も日の丸を振り回してバンザイしながら、誇りを持って愛する息子を戦地に送り出せるであろう。未来ある若者がお国のために命を擲つ、美しい国の誕生である。


ちなみに、日本人が2009年のように、再び政権交代を果たしたとしても、主権が日本人に戻る事は恐らく無いであろう。政権交代を目指す政治家には、政権交代をする気概はあっても、根本的な構造を変える気概は無いからである。つまり、その政府が長い間政権を握るならば、その政府が今の政府に交代して主権を握るであろうし、政権を維持できなかったとすれば、今の政府が再び主権を持つだけである。
日本人が主権を取り戻すのは、左右の対立構造を上下の対立構造へ移行してからである。それなしには、結局変わりようがないであろう。

まあ、もし政権が変わるならば、左右の対立構造も、上下の対立構造も今の政府よりはいくらかマシになるであろうと、信じたいところではあるが。


衆愚化を防ぐ方法

人間の記憶や興味は有限であり、自分たちの生活もあるわけで、政治ごとに拘える時間にも限りがあるし、蓄えられる知識も同様である。
政府が全力で日本人の衆愚化に取りかかれば、日本人全体としてそれに抗う術は実質的に無いといえる。上下の対立構造が顕在化して、政府の立場が危うくなるくらいであれば、政府は衆愚を右傾化を伸び切らせるであろう。

しかし、「そうなる前に蜂起せよ」などと他人に言うつもりはないし、出来ることと言えば、せめて自分だけでも衆愚の一員にならぬことくらいではなかろうか。

俺は全体の衆愚化を止めることは出来ずとも、個人が自分の衆愚化を防ぐことは可能であると考える。
その方法は「大事なのは国であるか人であるか」を考えた時に、「人である」と思うことではないかと思う。(国も人も大事だと言う人間がいるであろうが、これは小泉進次郎のようにまったく中身のない意見である。国か人か選ぶときに、人であると答えられる必要があるのだ)

これを心がけるだけで、少なくとも衆愚の中でも最も愚かで救いようのない者になることは避けられるであろうし、今の政府が人より国の道を歩んでいることにも、自ずと気づくであろう。

間違いがおきた時に、せめて自分がそれに加担したことを悔いたくはないものである。


最後に

ここまで読み進めた読者は「こいつガチ極左やんけ……」という感想を抱いた人も多かろう。実際、俺の考えていることのはガチ極左と極めて近いものなのかもしれないが、暴力革命だとかそういうものを目指す人には近寄りたくないし、ロシアや中国のように強い政府にも同調できない。(念のため補足しておくが、俺は何かの政治団体に所属しているわけではない。心中以外は極めて従順な衆愚である)

政府は基本的に強い政府として大きな仕事をするより、平和と平等のために細々としたことを丁寧にやっていれば良いのではないかと思う。まして、憲法改正などと言った大仕事を、望まれてもいないのにやるのは不要であるばかりか害悪である。

憲法はそもそも国民を国家権力から守るためのものであり、国家権力である政府が自分たちの権限を拡げるためにそれを変えようとするなど、言語道断である。もし、衆愚が強い政府のためにそれを望むのであれば、それは衆愚というほかない。

このまま日本人の衆愚化が進み、その中でもとりわけ愚かで救いようのない者が増えていくならば、いずれ日本人はまた過去と同じことを繰り返すであろう。
しかし、自分たちがその当事者になってはならない。

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