豚ラーメンの京アニ募金について思うこと


 言うまでもなく、ツイッターには色々な人がいて色々な考えを持っているわけで、その考えがたまたま自分の感性と著しく相反して憤怒したりすることもある。

 そういうツイートを見かけては自宅の壁を殴りつけたり、電車の中で突然「あああああああ!!!」などと発狂するなどして、世間の皆様から生暖かい視線を頂戴している今日この頃であるが、昨日、豚ラーメンがツイッターに自身の店の写真を載せて『豚ラーメンの1RT/1ファボしたら1円募金する』というキャンペーンをやっているのを見て、俺は地の底から吹き上げるような凄まじい憤りを覚えた。

「人の不幸に勝手に便乗して、てめえの店の宣伝をするとは、ふてえ野郎だ!」

 危うくいつもの調子で絶叫してしまいそうになった。しかし、インターネットでは既に定着したであろう「やらない善よりやる偽善」というフレーズが脳裏をかすめて、俺の口はすんでのところで発砲をやめた。

 「ちょっと待て。これは少し冷静になって考えるべきではないか。過程はどうあれ、RT/ファボされた分だけ京都アニメーションへの募金が1円ずつ増えることで、少しでも再建に資するのであるば良いと言えるのではないか? とすれば豚ラーメンが得る宣伝効果はその手数料みたいなものであろうか?」

 こういう二つの考えが頭によぎった時は、まず他人の意見を見てみることにしている。そういうわけで豚ラーメンのツイートに連なるリプ欄を覗いてみると、やはり「やらない善よりやる偽善」論が優勢なように見える。

 「これはありなのか……?」

 心が揺らぐ。俺は意志が弱い。だからいつまでたってもTOEICの点数は上がらない。しかし何かが引っかかる。その引っかかるものを、昨日は徒然なるままにツイートしていたが、こういう時は引っかかる原因を徹底的に追及するに限る。というか、そうすることを止められない性分なのである。

 そういうわけで、俺が引っかかる原因を明らかにすべく、思念に耽りながらこのnoteにまとめることにした。

 少し話が逸れるかもしれないが、そもそも俺は「結果が全てである」とか「結果が良ければ良い」という考えを良しとせず、結果より過程を重視するタイプのスタンドである。

 スポーツ選手など勝負の世界に生きる人は「結果が全て」という感じの言葉をテレビで使ったりする。 それはその業界に生きる人間の覚悟と厳しさを表しており、そのストイックな姿に見る人々は心を奪われる。一種のプロの美学であろう。

 しかし、結果が全てといってみても、実際のところ過程と結果は地続きである。過程が結果を生み出し、その結果が次の過程に繋がる。「結果が全て」と云うスポーツ選手も決して過程を軽んじでいないし、だからこそ「結果が全て」という言葉に重みが生まれる。例えば、俺が全く勉強せずにTOEICの点数が360点だったとして「結果が全てです」などとツイートしたところで、呆れられることはあっても、輝きなど微塵にも発光しないことからも、それは明らかであろう。

 では「やらない善よりやる偽善」などという行動的で耳障りの良い言葉を用いて、安易に過程を無視した結果主義を適用することについてはどうだろうか?

 それは勝負の世界に生きる人間の「結果が全て」とはまるで意味が違う。ましてや過程に対する非難を避けるためにとってつけたような結果など「やらない善よりやる偽善」ですらなく、論外であろうと俺は考える。


 それでは改めて「やらない善よりやる偽善」と言われる豚ラーメンのツイートを振り返ってみる。

 一般に、人の不幸に勝手に便乗して自分に利益を誘導することは非難される行為であろう。しかし、豚ラーメンのツイートが正当化されている唯一の要素は「なにはともあれ京都アニメーションに金が渡る」である。
 つまり「過程がどうであろうが結果を考えればまあ良かろう」である。これは過程を積み重ねて勝負の世界に生きる人間が言う「結果が全て」とは全く異なるものであり、京アニの不幸に便乗するという過程を黙認させるために、豚ラーメン側が用意した結果に過ぎない。これは俺が先ほど述べた論外にあたる。 

 そもそも「やらない善よりやる偽善」とは「他人に偽善だと思われようが、善だと思うことをやる」というニュアンスで使われる言葉だったような気がするのだが、いつからその言葉は批判を回避し、黙認させるための言葉に成り果ててしまったのだろうか。甚だ疑問である。

 また、豚ラーメンが求める真の結果は、京アニに金を渡すことではなく、京アニの不幸をダシにして得られる宣伝効果であるように思う。
 そう思う理由は1RT/1いいねで1円というしょっぱいレートもさることながら、他のツイートでもRT/いいねを促す施策を豚ラーメンは打っており(それ自体は別に良いと思うが)、要するにツイッタラー達にRT/いいねをさせて店の宣伝をすることが彼らの常套手段なのであろう。豚ラーメンの過去ツイートを見ても、今まで京アニのことについて触れているツイートも見当たらないし、京アニに特別な思い入れがあるとも思えない。
 ならば、宣伝効果が主体であると考えることに、些かでも疑問の余地を挟む必要はあるだろうか。

 今回の事件で京アニでは34人の命が奪われ、他にも何十名もの人が重傷を負い、アニメーターの血筆によって生み出してきた多くの作品が無惨にも焼失してしまった。

 その不幸に勝手に便乗して自店舗の宣伝をしてまわっても、京アニに数万円の金を渡しておけばそれで良いと考えるならば、それは「もらえるだけありがたく思え」と言っているようなものである。そこに京アニに対する敬意や同情など微塵もなく、誰かから批判を受けても「やらない善よりやる偽善」という擁護が入るであろうという豚ラーメンの狡知と、京アニの不幸を利用しただけの、ただの営利活動である。

 京アニ関係者が、豚ラーメンによるこの営利活動によって得られた金の切れ端を受け取った時に「もらえるだけでもありがたい」と思うかどうかは分からない。しかし、少なくとも豚ラーメンの浅ましい行為に対して、俺は非難こそすれど賛同する気持ちなど微塵にも湧かない。他人がどう言おうがである。

 最後に。京都アニメーションを支援したいがために豚ラーメンのツイートにRTやいいねをしたり、豚ラーメンを食いに行くのならば、その分の金を京アニの募金口座にでも振り込めばよかろうと思う。俺はそうした。

京都アニメーションの寄付用の口座は以下である。

http://www.kyotoanimation.co.jp/information/?id=3075


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