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より少なくでより多くを得るために生きてるわけではないのにね

コスパとかタイパって言葉を聞くと、自分がいろんなものを無駄にしてきてしまったような気がしてなんだか焦る。

でもほんとうは、無駄ってたのしい。そのことをときどきすっかり忘れてしまう。

一時期、オーディオブックにハマっていた。文章が上手く書けるようになりたくて、そのためにはとにかくたくさんの本を読まなければと思った。だけど思うように読書の時間を確保できる日ばかりではなくて、そんなとき、音声で本を楽しめるオーディオブックの存在を知った。

身支度や家事をしている間も、耳なら空いてる。そう考えてみれば、一日の中には無駄な時間がたくさんあった。オーディオブックなら、その無駄が活用できる。なんて効率的なんだろう。

それからわたしは、メイクをしながら、洗濯物を干しながら、野菜を炒めながら、何冊もの本を聴いた。より少ない時間でよりたくさんを聴くために、読み上げスピードは1.3倍速で。

本を開いて文字を追う心の余裕がないときも、ソファーに寝そべりながら、なんならネットショッピングをしながらだって、イヤフォンをすぽんと耳にさすだけで、何冊だって聴くことができた。

聴き終えた本のリストが増えるたび、自分の中に知識が蓄積されていくようで嬉しくなった。もっと、もっと増やさなければ。何冊聴いても月額定額のサブスクだから、聴けば聴くほどコスパも高い。

朝、家族を送り出してから自分が仕事に向かうまでの束の間のひとり時間も、仕事から帰ってきてあれこれの雑事を整え食事を作る間も無駄にはできない。耳にはずっとイヤフォンをさしたまま、家族に話しかけられても片手間で聞いてしまうこともあった。

だけどそのうち、毎日がひどく淡々と過ぎていくことに気がついた。特に平日。朝起きて仕事に行って、家に帰ってご飯を食べて寝る。そのルーティンはこれまでと変わらない。それなのにどうしてだろう。なんだか最近おもしろくない。なにかが足りない。そんな気がする。

いつもと違うことをしてみようと、イヤフォンを外して、目的を持たず近所を歩いた。両耳を包む風の向こうから鳥の声がする。カラスと、もう少しかわいらしい感じのチュンチュン、キュルキュル。

タイヤが道路を擦る音、すれ違うひとの息づかい、どこかの工事の金属音。

街にはたくさんの音が満ちていて、もうじゅうぶんに知ってるはずの景色のなかに、初めて出逢うあやしげな看板があって、錆びた鉄橋があって、においがあった。

その日はなにもかもをぜんぶ許したくなるような、あるいはぜんぶを許してくれそうな、やわらかい陽が惜しみなく降っていて、眩しくて、灰緑色に濁った川さえきらきら光って、特別なことはなんにもないけど満ち足りた気持ちになった。

ああそうか、足りないんじゃなくて、多過ぎたんだとわたしはやっと気がついた。

オーディオブック自体はとても素晴らしいコンテンツだと思う。でも、わたしの極端な使い方が毎日から無駄を削ぎ、そこに付随するたのしさまでもが削がれてしまった。それに正直、なにかに急かされるようにして倍速で聴き流した本の内容は、あんまり心に残っていない。

コスパがいいっていうけれど、わたしが得をしているその裏には、損を被っているだれかがいるのだろうし、タイパがいいっていうけれど、なにかを得るということは、なにかを失うことでもあるのだろうな。

コスパとかタイパって言葉を聞くと、自分がいろんなものを無駄にしてきてしまったような気がしてなんだか焦る。でもよくよく考えてみれば、べつに、より少なくでより多くを得るために生きてるわけではないのにね。

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