世界で最も古い職業は娼婦なのか?
アブストラクト
「世界で最も古い職業は娼婦である」という定説めいた言説は、しばしばメディアや文学で引用されるが、歴史的・人類学的視点から正当性を検証する必要がある。本稿では、娼婦説の起源や傭兵説、さらには狩人説など、複数の視点から「最古の職業」概念の妥当性を考察する。また、「職業に貴賎はない」という理念の成立と展開を振り返り、その普遍的正しさと現実との乖離を指摘し、多元的な職業観を再検討する。
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本文
1. はじめに
「世界で最も古い職業は娼婦である」という言葉は、欧米圏を中心に広く流布している言説であり、小説、新聞、テレビ番組、さらには学問的でないエッセイや談話など、様々な文脈で耳にする機会がある。この言説がいつ、なぜ生まれ、いかなる根拠をもって語られてきたのかについては、意外と明確な根拠が示されないまま流通している場合が少なくない。一方で、類似した主張として「最も古い職業は傭兵である」という言い伝えも見受けられ、また実際に歴史的な人類の営みを振り返ると「狩人」や「採集者」こそが人類が初期段階から担ってきた生業であったと考えることが妥当であるとの反論も存在する。
こうした議論は、単なる言説の源泉探しに留まらず、「職業」という概念が一体何を意味し、社会的・歴史的文脈の中でどのように形成・変容してきたのかを考える上で有益な素材を提供する。本稿では、まず娼婦が「世界で最も古い職業」として言及される由来と、その背景にある社会的・文化的要因を考察する。次に、傭兵説や狩人説についても同様に検討し、いずれが実証的・論理的妥当性を有するのか、またこれらの説が持つ社会的・文化的意味合いに注目する。さらに、歴史を通じた職業観の変遷や、「職業に貴賎はない」という理念が近代社会で強調されながらも、依然として存在する身分的・階層的な職業差別の現実について考察し、結論として、多元的な職業観の再検討を試みる。
2. 「世界で最も古い職業は娼婦」説の起源と背景
娼婦という職業が「最も古い」とされる理由の一つは、歴史上、売春行為が世界中の多くの社会において非常に古い時代から存在してきたことにある。旧約聖書や古代メソポタミア、エジプト、ギリシア、ローマなど、西洋古代文明の記録には娼館や娼婦の存在が明確に示されている。また、インダス文明や古代中国、古代日本においても、売春に相当する性労働の形態があったことが研究から示唆されている。この遍在性と歴史的深度が「娼婦最古」説の下地となっている。
しかし、ここで注意すべき点は、「最古」と称されるほどの明確な考古学的証拠は必ずしも存在せず、この言説は多分に文学的・修辞的な効果を狙った比喩表現として流通している側面が大きいことである。特にヴィクトリア朝時代のイギリスや、20世紀初頭のアメリカで、性に関する話題がタブー視されつつも興味の対象であった時期に、「娼婦=最古の職業」という印象的なフレーズが受容されやすかった可能性がある。娼婦は「いつの時代にも、どの社会にも存在した」職業として、人々の想像力を刺激し、社会の側面を象徴的に語るためのレトリック的装置として利用されてきたと考えられる。
3. 「世界で最も古い職業は傭兵」説への検討
一方で、「最も古い職業は傭兵である」という主張も散見される。これもまた、戦争や武力による紛争が人類史とほぼ並走してきた事実に基づいている。人類が集団を形成し、領域や資源をめぐる対立を解消するために暴力的手段を用いた歴史は極めて古く、部族間抗争や初期農耕社会での土地争いは旧石器時代から新石器時代にかけて既に存在した可能性がある。そのため、武力に従事する者や、報酬と引き換えに他集団との戦闘に参加する「傭兵的存在」が非常に古い歴史を持つこと自体は否定しがたい。
しかし、傭兵を「職業」として確立するためには、ある程度の社会的分業と経済的交換関係が前提となる。すなわち、戦闘能力を商品化して報酬を得るには、金銭や財貨の流通が必要であり、社会構造が単純な狩猟採集段階からより複雑な階層社会へと移行するプロセスを経る必要がある。単純な集団間抗争を「仕事」と呼べるかは疑問であり、初期人類社会では、集団防衛そのものが「職業」ではなく集団全員が担うべき義務の一部であった可能性が高い。よって、傭兵説が娼婦説より「職業らしさ」をもって最古を主張するには、より精密な定義づけが必要となる。
4. 狩人が最も古い職業なのではないか?
「娼婦」「傭兵」という比較的特殊な機能に注目する言説に対して、最もシンプルな反論は、「人類が生存のために行ってきた営み、すなわち狩猟や採集こそが最古の『職業』ではないか」という視点である。確かに、人類が社会を営む以前、つまりいわゆる「職業分化」以前から、人類は狩猟や採集によって食料を確保し、生命維持を行ってきた。これらは確実に歴史上最古の生業形態であり、全ての職業の原型とすら言えよう。
ただし、ここで問題となるのは、「職業」という概念が歴史上どの段階で成立するかという点である。狩猟や採集は、初期人類社会においては全員が参加する生存活動であり、明確な分業や対価交換が成立していたとは考えにくい。また「職業」という言葉には、一定の専門化や技能、継続的な社会的役割の存在が暗示される。万人が狩人であった社会で「職業」と呼べるほどの分業が存在したかは疑問である。
しかし、農耕が始まり、社会が階層化・複雑化すると、職業の概念は徐々に成立し、特定の個人や集団が特定の機能に特化する傾向が現れた。この特化によって初めて、狩人、農民、工人、商人、そして娼婦や傭兵といった専門的な技能や役割が「職業」として認識される基盤が生まれたといえる。
5. なぜ「世界で最も古い職業は娼婦」と言われるのか?
では、なぜ娼婦が「世界で最も古い職業」として格別に言及されてきたのか。その理由の一つは、性的サービスが貨幣経済以前から交換価値をもちえたと考えられ、それがあらゆる社会、あらゆる時代に存在しうる普遍的現象だからである。性愛は人間の本能的欲求であり、その欲求を対価と引き換えに満たす形態が、集団のどの段階にも出現しうるという発想が根底にある。
また、文学的・象徴的な要素も無視できない。売春はしばしば宗教的儀式や祭祀行為とも結びついており、古代メソポタミアの神殿娼婦のように、単なる性的労働を超えた神聖性や社会的意義を帯びる場合もあった。そのため、娼婦は「不変的存在」としてのイメージが強化され、「太古からある」印象をもたれやすい。また、近代以降、都市部での売春市場の拡大や社会問題化によって、メディアが「最古の職業」という決まり文句で娼婦を描写し、大衆の印象に定着させた側面も考えられる。
6. 職業観の変遷と「職業に貴賎はない」という理念
これまで「最古の職業」論争を辿ってきたが、ここで「職業に貴賎はない」という日本における近代以降の理念へと議論を拡大してみよう。この理念は、明治維新以降の近代化のプロセスで、封建時代に定着していた身分的職業差別を否定し、市民的平等の原則を掲げる中で打ち出された標語である。しかし、この理念が果たして現実に浸透し、職業間の差別や偏見を完全に解消したわけではない。
現実社会では、業務内容や収益性、社会的評価などによって職業間のヒエラルキーが存在する。例えば、医師や弁護士などの専門資格職は高い社会的地位と報酬を受け、対して単純労働や、社会的スティグマを伴う職業(例えば性労働など)は低い評価や差別の対象となることが多い。このように「職業に貴賎はない」という理念は、そのまま現実を覆すほどの力は持たないことが明らかである。
この点は「最古の職業」論争にも通じる部分がある。「娼婦は最古」と言う際に、そこに滲むのは往々にして軽蔑的・蔑視的なニュアンスであり、歴史的必然性よりも文化的ステレオタイプが作用している可能性がある。言い換えれば、「最古」という称号は必ずしも名誉ではなく、社会的に軽んじられてきた職業を揶揄するために使われる面もあるのである。
7. 世界と日本における職業意識の差異と変遷
世界的な視点で見ると、職業に対する価値観は文化圏や時代によって大きく異なる。例えば、インドのカースト制度では生業が身分と密接に結びついてきたし、中世ヨーロッパではギルド制度が職人たちの地位を規定し、産業革命以降の近代資本主義では労働市場が個人の職業選択や地位上昇の可能性を広げた。戦後の日本では、経済成長の過程で「一億総中流」と言われる社会的幻想が流布し、職業選択の自由と平等が一定程度達成されたように見えたが、近年では格差社会の進行や非正規雇用の増大により、再び職業的な格差が顕在化している。
こうした歴史的・文化的文脈に立って「最も古い職業は○○である」という単純なフレーズを検討すると、それは職業に対する我々の先入観や価値観、さらには歴史や社会の構造への理解不足を映し出した鏡のような機能を果たしているといえる。いずれの「最古」説も、厳密な実証的根拠に基づくというよりは、歴史的な人類活動の一断面を象徴的に示すレトリックであることが多い。
8. 結論:多元的な職業観と歴史的理解の必要性
本稿では、「世界で最も古い職業は娼婦である」という言説を起点に、「傭兵説」や「狩人説」への検討を加え、その背後にある「職業」という概念そのものの成立過程や意味合いを探った。その結果見えてきたのは、「職業」という言葉が、歴史的・社会的条件のもとで特定の機能や技能が専門化し、報酬と結びついたときに初めて成立するものであるという点である。原初の人類社会では生存活動と区別できる「職業」はほとんど存在せず、徐々に社会分業が進む中で職業が成立していった。そして、この過程で武力を用いる集団や性的サービスを提供する集団、狩猟を専門とする集団などが現れ、いずれも「最古」と呼べるほど古い歴史をもつ活動でありながら、どれを「最古」とするかは恣意的である。
「最古の職業」をめぐる議論は、我々が職業にまつわる価値観や社会的ステレオタイプを再考する契機を与える。さらに、「職業に貴賎はない」という近代的理念と、現実の不平等や偏見、差別の存在は、職業観の変遷が不断の社会的・文化的交渉の産物であることを示している。結局、「職業」そのものが歴史的・社会的文脈の中で意味を変え続けるカテゴリーである以上、「最古の職業は何か?」という問いは、特定の答えを求めるよりも、私たちが職業をどう捉え、どう評価し、どう位置づけているのか、その心的風景を顕在化させる鏡として機能するのである。
要約版(時短したい方向け)
1. はじめに
「世界で最も古い職業は娼婦である」という常套句は歴史的証拠に乏しく、比喩的・象徴的に使われてきた節がある。同様に、「最古は傭兵」という主張も見られ、さらに「狩人こそ最古」との反論もある。本稿はこれら説を比較し、最古の「職業」概念が何に基づくかを考察する。
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