推し活

近年世間にも浸透し、誰しも"推し"がいることが普通みたいな雰囲気になってきた。私は20代の多くを女性声優や地下アイドルのケツをおっかけて生活していたわけなので浸透する前から推しという存在に振り回されてきた異常者です…(自分が勝手にあっちこっちしてた)

最近は推しがカジュアルになってきた。それ自体は別にどうでもいいし、アイドルだなんだを好きになる人が多くなるなら、自分も友達になれる可能性も増えるだろうし、大いに結構だ。

ここからはじじいの戯言。別に推し活自体を否定してるわけじゃないけど、自分の遊びを商業的な推し活に当てはめたくないな~~~って思ってしまう。じじいだからな。老害は頭がかてえんだ。

推し活

だいぶ商業的になってきた。売る方が推しとか、推し活とか、その手の言葉を使うようになってきた印象がある。選ぶ我々が使う言葉としては正しいが、売る方の言葉ではないような気がするというのが私の感覚。

まぁ売る方の事情は、ゲームがeスポーツと言われるようになったみたいな要は言い換えとかそういう話なので、あんまり気にしなくていいかもしれない。

好きになったコンテンツから推しのキャラや人を選び出し、グッズを買ったり、イベントを楽しむ。ぶっちゃけやること自体は自分と一切変わらない。

だけれども昨今のインターネットは推しに献身的に捧げる行為が先立っているように感じる。「推しのために」が正義で、文句も言わず、ただお金や時間を使うことが正義を押し付けられているような雰囲気。

ちなみに、自分も文句言わずお金や時間を使うことは正義だと思っている。だけど、この「推しのために」行うことが推し活というのが自分の中で1つ大きな違和感だ。

自分がするオタク的な活動

自分はグッズはあんまり買わない。あまりに際限がないため。

ライブやイベントが好きなので、それに脚を運び続けるのが自分の行動指針だ。ちょうど10年同じような行動をしているわけだけど、「推しのために」イベントに行ったことはない。

自分が「そこに行けば楽しい時間を過ごせる」と思ったものに足を運ぶ。たまーにあんまりおもしろくなさそうだけどいかないと後でムカつきそうだから行くとか意味不明なこともしていたけど、推しのためはない。全部自分のため。

ってここまで書いたんだけど、「推し活」という言葉に大きな偏見を持っているだけで、「推し活」という言葉を使っている人も「推しのため」じゃなくて自分のためにしているのだろうか。勝手に自分が勘違いをしている気もしてきた。ちなみにここでいう「推しのために」は「推しが幸せなら私も幸せ」で私が二の次になっていることです。自分は最悪自分が楽しければいい。極論だけど、「自分ら(オタク)が楽しそうなことが推しが楽しいって思ってくれる」くらいに考えている。

推しへの文句をインターネットに(たまには)書いてもいいと思うし(リプライやDMじゃなくて見えないようにしなさい)、ガチ恋したっていい(しないほうが精神的にはいい)。飽きたら推し変すりゃいいし、増すなら増せばいい。

誰かのため、権威のために何かをするって自分がそれを選択しているならいいけど、それを強いられているのは窮屈だ。インターネットは自由が故に窮屈になってしまったなぁと常々感じるね。

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