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君島大空『no public sounds』とモアレ

君島大空の新曲の題にはチベット文字が使われている、と書くと困惑を呼びそうに思われるが、以下をご覧いただければ諒解されるように思う。

環境によってはうまく表示されていない可能性もあるので、字形を説明する。問題のチベット文字は、「=」の全体を波打たせ、上の線の末端をクモザルの尾のようにくるりと巻いたもので、はやいところ、風を漫画的に表現した際の効果線に似た形状をとっている。顔文字のようなものとして用いられているのだ。

チベット文字は日本国内の産業規格であるJIS水準には含まれておらず、そのため、上の文字は本文を表示する端末や環境によっては表示をすることができない。たとえば、古いカーステレオでこの曲を流せば、画面上では表示が崩れている可能性がある。そしてこの題は、だから良い・・・・・のだと思う。

君島大空の新譜『no public sounds』のパッケージの話をしたい。西田修大によるアルバムジャケットが素晴らしい。君島がタクシーの窓から顔を出しており、その背景には地方都市の駅近辺に散見されるような小さな駐車場や自動販売機、通行人といった要素が写っている。そして、なにより注目するべきは、画面の六分の一ほどを占める背景のシャッター・・・・・・・・だ。こうした規則的なパターンは、液晶画面などに表示するとモアレと呼ばれる独特の縞模様を生じる。原理についての説明は措くが、この模様は端末の特性やジャケット写真を表示する大きさなどによって様相を変える。実際に『no public sounds』のジャケットをスマートフォンの画面などに(小さい方が効果は分かりやすいかと思われる)表示し、拡大・縮小をすればどのような現象であるのかはすぐにわかるだろう。そして、このモアレこそが『no public sounds』のコンセプトにどこまでもしっくりくるように思われるのだ。

君島大空によるセルフコンセプトノーツは以下の特設サイトより読むことができる。まずは一読してもらいたい。

アルバムの題となった「no public sounds」は、「Soundcloudで公開された音源に、再びアクセスしたとき、その楽曲が削除されていた場合にブラウザに出るメッセージ」である。音源を公開していた場所は失われ、それと同時に音源もまた失われる。

現代はインターフェイスの透明化が非常に徹底されているため意識には上りにくいが、音楽を聞く際には、必ずそこに「場所」という概念が付随することになる。蓄音機が発明されるより以前はコンサートの会場や路地裏といった場所がそれにあたったし、音を保存することができるようになってからはスピーカーの設置されたところが音楽のある場所となり、そしてウォークマンの登場以降は、あらゆる場所が音楽を聞くことのできる場所となった。しかし、はたして音楽と場所の関係については、この理解で十分だろうか。

「場所」は、フィジカルなものだけでなく、インターネット上のサービスにまで定義を拡張できるように思われる。この曲は動画投稿サイトにのみ投稿されている。もう廃盤になってしまったけれどサブスクリプションサービスでなら聞ける。デモ版だがアーティストが反応を見るためにSoundCloudには上げられている。こうした具合に、どのサービスで音楽を聞くかといった経験は「場所」に近い概念として自然と受容されているように思う。

通信技術が十分に発達した現代では、劣化することなく完全に同一のものとして「音源」が流通する。しかし、それを再生する側はそうでない。ヘッドフォンで聞くのか、スピーカーで聞くのか、その日の体調はどうか、過去の音源は聞いたことはあるか、ライブに行ったことは、YouTubeに上がっているティザーは聞いたか、曲名を見ながら聞いているか、その曲名はどのように表示されているか、チベット文字に対応しているか。そうした無数の情報を通すことによって、ただ一つの音源から一回性を持つ「音楽」が生まれる。

「- - nps - -」ではステレオのサウンドが強調される。極端に左右に振り分けられたギターとボーカルの距離感は、ヘッドフォンで鑑賞する際とスピーカーで鑑賞する際とでまったく異なるものとして感じられることだろう。(これは「銃口」(EP『袖の汀』収録)でも用いられていた手法だが、おそらく目的は別のところにある)

日本語の歌詞と英詞とが織り交ぜられた「curtains」の歌い出し「火照る身這う」はその独特の発音によって、聞きようによっては「Tell me how...」とも聞こえ、鑑賞者の母語などによって体験の質が変わってくるものと思われる。アルバム全体を通して、音楽の体験の持つその一回性・代替不能性に対してアプローチしているのだ。音源はそれだけで音楽となることがなく、モアレにも似て、個々の鑑賞経験を通してのみ音楽となる。そして、それ以外の在り方では、音楽は存在しない。

過ぎ去る全てが着く場所に
長い長い梯子をかけて
誰にも聴かれることのない歌を
掴んだら
またここで会えるかな

君島大空「- - nps - -」

どこで出会うかによって、音楽は姿を変える。音源はパブリックになりえても、すべての音楽はプライベートである。体験の一回性はときに残酷でもあるが、それは同時にその一度きりの体験を特別なものとする。モアレは電波に乗せて共有することができず、どこまでもわたしだけのものである。そのような体験として、わたしは『no public sounds』を聞いた。音楽を聞いたのだと思う。

青島もうじき(あおじま・もうじき)
作家。豆乳が好き。
『私は命の縷々々々々々』(星海社)、『異常論文』(早川書房)、『破壊された遊園地のエスキース』(anon press)など。

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