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布施琳太郎『涙のカタログ』より「黒より冷たい海のメディア」感想

 水面というインターフェイスについて考えている。インターフェイスと呼ぶからにはそのこちら側とむこう側とに誰かがいるはずで、インターフェイスと呼ぶからには、それは境界で隔てられている。
 あるいは、その情報量逓減について。シャノンの定理をあらかじめ知るわたしたちが、沈黙を通してだれかとかかわり続けることについて。そうしたことを、紙面に並べられた言葉を以って考えている。

『涙のカタログ』は、PARCO出版より2023年11月に刊行された布施琳太郎の第一詩集。『現代詩手帖』に寄稿の作品や、個展などで発表した作品に加え、多数の書き下ろしを収録した全29篇が並ぶ。

◼︎布施琳太郎『涙のカタログ』(PARCO出版)
https://amzn.asia/d/7AKfB8g


 言葉が尽くされているのに、同時になぜだかとても静かにも感ぜられる一冊だった。詩の一篇ごとに題こそ与えられているものの、それらはモチーフや言葉の反復によって、相互に参照し合っている。一冊をとおしてその内側で、あるいは外側に向けて、会話を行っている。けれどそれは、ひとつの概念を削るように精緻に、明確にするための会話ではない。文字通り、ポリフォニーは複数の身体を要求し、しかしながらそこにひとつの音楽を生む。『涙のカタログ』で交わされる会話は、言葉を尽くすごとに沈黙に近づいてゆくような経験に近い。

「種の季節性誤変換」「涙-5」、それから「新しい死体」など、論じたい作品はいくつもあるが、準備なしにその総体を語ることは難しいため、ひとまずこのエントリでは「黒より冷たい海のメディア」の一篇に範囲を限定する。しかし、この一篇だけでも、『涙のカタログ』の持つ言葉と通信に対する態度の一端は垣間見えるように思われる。

 冒頭に配された「黒より冷たい海のメディア」は『文學界』へ寄せたものを再編集した一篇。「水面」「皮膚」「水平線」「毛」といった、境界にまつわるモチーフが散りばめられ、これらは『涙のカタログ』において繰り返し語られることになる。しかし、これはある言葉を特定の意味に押し込めるものではなく、むしろ、伝達における幅をそこに残すものである。

 言葉にとって身体とはなにかと考えたとき、「制約」の二文字を思い浮かべることにさほどの飛躍は必要ないだろう。言葉はどうしようもなく、身体から制約を受ける。

 わたしたちにとって言葉は、時間性を持つ。文章は上から下、左から右、右から左……いずれにせよ一方通行に読み出され、書き手も、その読まれ方に耐えるような言葉の配置を行う。
 しかし、言葉は三次元以上のベクトル空間に、ネットワーク状の有機的な構造を作りながら存在している。それを一方向性を持つ文章という(マクロな視点における)一次元へと投影しているのは、あくまで人間側の知覚の都合である。人間がその発達段階で獲得する論理や理性のモデルは、二次元以上の言語情報を並列して処理できるようには作られていない。だから、ある時期を過ぎたわたしたちは水面のことを面であると感じてしまう。
 言葉のベクトル空間という捉え方は、ごく単純化するなら、自然言語処理における単語ベクトルのことと読み替えてもよい。しかしながら、ここで想定しているものはより広義に、言葉を取り囲むすべてのアクターの間に横たわる、あらゆる差異の体系であるものと強調したい。言葉は伝達のために使われる。それは、ふたつのものが異なる存在であるというところからしか出発することができない。青、と名前を与えるとき、そこには青でないものが生まれ、世界を刻むことで言葉とし、わたしの成立は同時に、あなたとの別離を意味する。差異の体系は、孤独の体系と呼んでもよいかもしれない。
 だが、そこには沈黙がある。『涙のカタログ』は、制約を前にした沈黙が、その沈黙のうちになにかを結びとめる様子を描いた一冊であるものと感じた。

指に刺さった 映像で
つくった水面 骨と爪

皮膚の砂浜 濡らすのは
通過する波 通話した(かった
から、光った うすい海

「黒より冷たい海のメディア」より

 そうして「黒より冷たい海のメディア」は、七五調の、かつ字数まで揃えた二行から開始される。「すいめん」とも読めるはずの「水面」の音の揺らぎは、七五調という強力な定型の力によって、自ずと「みなも」という単一の解釈へと回収されていってしまう。
 定型=身体は制約である。言葉と人間の間には身体があり、その境界としての身体を媒介してしか、わたしたちは言葉に、あるいはその先にいる他者に触れることができない。境界面は差異を作り出す。その境界面を言葉と読み替えて、わたしたちは誰かと関わり合っている。だから、誰かと関わるためには、わたしたちはその誰かと同一の存在になってはならない。わたしたちは「水面」を「みなも」と読めてしまう身体を有している。

 しかし、はじめの二行にはすでに「すいめん」の気配が漂っている。ほどなくして気配は定型から零れて、身体というメディアに結び付けられながらも、定型=身体=水面というインターフェイスにさざなみを立てる。
 言葉の持つ多層性は、身体を攪乱する。水面が面でありながら、同時に奥行きを持つインターフェイスであるものと明らかにする。水平線を構成する存在が複数の次元を持つものと気付かせる。しかしそれは身体を介在させることによって生じる言葉の制約を棄却するものではない。むしろ、制約を前にした人間の、その多層性に対する沈黙の姿をもって、あたらしい形での他者との繋がりを作り出すものである。
 わたしたちは、メディアであるはずの言葉によって、逆説的に引き裂かれてゆく。けれどその水面は、丁寧に目を向ければ沈黙をするに足るだけの多層性を持っているものと気付く。海を見て思わず息を呑んだその瞬間に、わたしの身体からあなたへと伝わったなにか。それを言葉にする方法を考えている。

 この一篇は最後、「この影の理由を探している」の一行で結ばれる。
 身体というメディアがわたしやあなた対して投げかける影響を、さざなみ立った水面が海中に作り出す光のまだら模様のようなものとして捉えることで、誰かと関わるうえで境界面として働く身体感覚を、祈るような仕方で多次元のそれとして呼び起こそうとしている。
 水平線は、境界の一次元投影である。わたしたちはいつも、言葉によって、あるいは通信によって、つねにその投影を成している。だから「黒より冷たい海のメディア」は肌に水面を見る。あたらしい孤独のための一冊として、『涙のカタログ』は、水面とその影を見ることから開始される。

 布施琳太郎は2023年12月に、同名の自主企画講義を再構成した評論『ラブレターの書き方』を刊行予定。

◼︎布施琳太郎『ラブレターの書き方』(晶文社)
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青島もうじき(あおじま・もうじき)
作家。豆乳が好き。
『私は命の縷々々々々々』(星海社)、『異常論文』(早川書房)、『破壊された遊園地のエスキース』(anon press)など。
『小説すばる 2023年12月号』『ユリイカ 2023年12月号 特集=長谷川白紙』に寄稿。

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