4/5〜4/11の日記



日記を復活させました。
普段クローズドな場に書き留めているメモの再編集であるので、見かけの割に労力は少ない。
毎週更新を予定している。


4月5日


水は迷路を解くのか(Can water solve a maze?)」という動画を見た。大気圧と表面張力との関係によって流体が迷路を解決してゆく様がパフォーマンス的に示されている。物理法則とアルゴリズムについての動画と言ってもよいかもしれない。粘菌コンピュータなんかもそうだけど、知能と迷路というものはかなり接近した領域にあって、ならば物理法則が迷路を解くことを通して、世界それそのものの持つ知能について考えることもできる。

ドラえもんの「ホームメイロ」の恐ろしさとシンギュラリティへの漠然とした忌避感は、人間の知能の在り方を超えた知能の在り方が登場することへの根源的な恐怖という点において似ている気がする。ミノタウロスの迷宮から脱出したイカロスが光と重力によって命を落としたということは、たいへん掘りがいのあるトピックなのではないかと思う。理解できるから・・よいという美的判断が相対化されている時代において、迷路はひとつのベンチマークになるのかもしれない。

4月6日

窪薗晴夫編『オノマトペの謎』(岩波科学ライブラリー)を読んでいる。国語学者の金田一春彦がオノマトペを「擬声語」「擬音語」「擬態語」「擬容語」「擬情語」に分類したというようなことが冒頭に書かれていて興味深く思われた。「生物or非生物」の 「音or状態」という分類によって擬声語〜擬容語の四つは説明されて、最後の「擬情語」は人間の心理を表すオノマトペ、とのこと。以前より「擬声語と擬音語は分けるのに擬態語は分けないのか」と不思議に思っていたので、すこし「やっぱりそうだよね!?」感があった。

同書の竹田晃子「オノマトペにも方言があるの?」も面白かった。ニャンコがニャンニャン鳴くことから、ワンコがワンワン鳴くことから来ているように、ベコはベーベー鳴くことからベコと呼ばれるらしい。すこし世界が異なっていれば子牛は「モコ」と呼ばれたのかもしれない。

東北方言では子牛のことは「ベコッコ」とも呼ぶらしい。柳田國男『蝸牛考』の方言周圏論的な仕方で東北に「ベコ」が伝播した結果、元は子牛を示していた「ベコ」から大人/子の区別が取れて牛を示す語となったが、区別を回復させるために「ベコ+コ」で「ベコッコ」になったと考えられる、というようなことが書かれていた。

シモーヌ・ヴェイユとアンドレ・ヴェイユが兄妹であることを初めて知り、仰天した。『重力と恩寵』とニコラ・ブルバキはいずれもしばしば参照する概念であるので「たいへん世話になりまして……」と頭を下げている。そろそろバガヴァッド・ギーターを読まなければならない気がしてきた。

柳沢英輔『フィールドレコーディング入門』(フィルムアート社)を買ってきた。ずっと欲しかった本なので手に入れられて嬉しい。人間中心主義から離脱した場所に響いているはずの外部の音を採集したい。

4月7日


いよわ「一千光年」がサブスクに追加されてしまったので、出先でも無限に聞いてしまう。本当に良い。わたしも祈りを伴った数学的定義上の直線になりたい。

雨上がりのため月が煌々と光っており、脳がバグりそうになっている。

引き続き、窪薗晴夫編『オノマトペの謎』(岩波科学ライブラリー)を読んでいる。南関東の学校の校歌に「富士山」の語が使われていることは確かに指摘されてみれば興味深い。隣接してすらいないのに、「見える」という条件をもってその学校や地域の特徴として扱えてしまう。人間の直感にとっては、接触だけが馴染み深さの条件なのではなく、聴覚や視覚などを通した情報の流入も条件となりえるのかもしれない。これはテレプレゼンス以前の感覚によるのかな。

4月8日


深夜のアイデア出しが盛り上がった結果、横臥しながら虚空に向かって存在しない講演を一時間近く執り行ってしまった。聴衆のないなかで延々と一人で喋るコツは、困ったら質問が入ったことにして「そう、それなんですけど」と話題を変えること。「意外とこれには関係があって」なんて適当を喋ってみるとなんとなく共通点が見つかったりして楽しい。あとは我に返らないこと。

さかなのクリッカーゲームについてずっと考えている。単複同形の「fish」を爆発的にふやすこと。

4月9日

こういう夢を見たのだけど、よくよく考えたら前日の晩にコブエイレネクラゲについて考えていたのだった。1992年に鳥羽水族館で初めて発見されて以来、自然界ではまだ見つかっていない、「水族館にだけ生息地が報告されているクラゲ」。かなり単純に影響を受けて夢を見ている。

選挙があったので行ってきた。数年前に気が向いたので近所の投票所へふらふらとゼロ票確認をしに行ったことがあるのだけど、「この選挙を正当なものとする責任の一端をわたしが担ってしまっている……」という責任感がけっこう重かったので以降はやっていない。

いまの部屋は角度の加減で夕方になると虹色に分割された光が落ちてくる。好きな本に翳してしばらく楽しんだが、著作権の都合で写真は載せない。

小説の改稿をしている。余計な記述を削り、不足している箇所に加筆をした。気を抜いて書いた箇所は後日になってみるとやはりどうにも目立つので、気を抜いて文を書くべきではないなと思った。良い文章に仕上がりつつあると思う。

4月10日

岩倉文也『あの夏ぼくは天使を見た』(KITORA)を読んでいる。第一部では「位置」が非常に好きな作品だった。そのようにして読めるのではないかという期待と、それが文法的に拒まれる決定的な断絶を視覚詩の手段を通して扱っている。

文章というのはやはり、文字列を順に読む以上は時間芸術としての性質を有していて、その意味において、存在する文字とそれを鑑賞することの間には存在論的な食い違いがあって、その記号の無時間性へアクセスすることができないという断絶が、そのまま「あなた」との断絶へと適用されている作品なのだと思う。たしかに夏は空気の中にこういう裏切りを嗅ぎ取ってしまうことがある。良かった。

花冷えの"ナビエ"の部分。

現在改稿している原稿のなかに宮沢賢治「春と修羅」の序に目配せをした箇所があったのだけど、うまく気付いてもらえて嬉しかった。わたしはすべてのオマージュを気付かずとも鑑賞できるように配置しているつもりではいるけれど、やはり情報の一つのアクセスポイントではある。わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。

4月11日

大切に読もうと思い原稿の落ち着くまで長く置いていた、斉藤斎藤第一歌集『渡辺のわたし』(港の人)を読み始めた。第二歌集『人の道、死ぬと町』(短歌研究社)は私性と当事者性とに取り組んだ(と要約すると致命的なまでの取りこぼしがあるが)傑作であり、非常に重要なテクストであるので本棚の目立つ位置に常に置いている。表現に対する思弁、あるいはそれを介した祈りの仕方についてのこの上なく誠実な歌集であると思う。短歌のコードに慣れているかたはぜひ。

まだ全てを読んだわけでないので、途中までの素朴な感想。モノをモノとして表現しているところが好きだ。人間や「わたし」が世界のなかで相対化されていくため、わたしは存在していてもよいのだ、あるいはわたしは存在していなくともよいのだ、と感じることができる。この二つは同じ祈りの仕組みの上に生起するその両面であるものと思う。

共感できないものに対して、ただその存在を認識するということでしか受け止められない他者というものが存在する。AIが書いた小説に理解をしないままに感動をしてもよいし、水が迷路を解いたってよい。一部を些事と捨象した理解は、むしろ暴力的ですらある。

『渡辺のわたし』については、いつかもうすこし丁寧に文章を書きたい。まだ半分ほどだがすでに付箋で分厚い。

「羊が一匹、羊が二匹、」というフレーズはおそらく「sheep」が寝息に似ていることから来ているので、日本語で同じことをするなら「スピーカー」や「寿司屋」などが良いのではないだろうか。寿司屋が一軒、寿司屋が二軒。

遠野遥『改良』(河出文庫)を読んだ。生々しさに具合の悪くなる小説ではあったが、非常によい小説でもあった。ルッキズムを内面的な規範として受け止めているという積極的な自覚のないままに、その土台の上で生を送っている人間を扱った小説(としての一面があるのだと思う)。

読者の目にはどこか機械的に映ってしまう主人公の心理は、規範を所与のものとして捉えてしまうことから来ているものと思う。どこかゲームのNPCのような、特定のアルゴリズムへの入出力に従っているように見えつつも、それが中動態的に自らの望みであると誤解できてしまうという点に、隠しきれない歪みが現れる。けれど、大きな物語の凋落したポストモダンの現代においてはこういう規範倫理的なアルゴリズムへの過剰適応というのは往々にして起こることなのではないかとも思う。村田沙耶香『コンビニ人間』も併読したい。平野啓一郎の文庫解説が非常に良かった。たしかに「納得」という軸を導入することによって、その歪みを捉えることができそうに思える。

花言葉の知識のみを潔癖症的に欠いた野草マスターになりたい。

青島もうじき(あおじま・もうじき)
作家。豆乳が好き。
『異常論文』(早川書房)、『破壊された遊園地のエスキース』(anon press)など。

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