宮田眞砂『セント・アグネスの純心 花姉妹の事件簿』感想
宮田眞砂『セント・アグネスの純心 花姉妹の事件簿』(星海社FICTIONS)をご恵贈いただきました。
■宮田眞砂『セント・アグネスの純心 花姉妹の事件簿』
宮田の作品は、いつでも信仰に満ちている。同人文化や(『夢の国から目覚めても』)、書物(『ビブリオフィリアの乙女たち』)、それから本作でいえば疑似姉妹がそれにあたるのだろう。なにか人と人とを引き結ぶようなモチーフが中心にあって、それの作り出す慈愛の空間を〈百合〉として丁寧に描いている。
読めばすぐに気付くように、本作は百合小説の歴史の中でひとつの記念碑的な作品である今野緒雪『マリア様がみてる』(コバルト文庫)へのオマージュを多く含んでいる。また、ミッションスクールの慣習として存在する、上級生と下級生の間の疑似姉妹制度は、『マリみて』への視線であると同時に、川端康成『乙女の港』で描写されるような、大正~昭和初期にかけての現実のエス(文学)に接続される、長い歴史を持った概念でもある。しかし、そこに持ち込まれた〈ミステリ〉の要素が、とくに序盤においては歴史性に対置されるように立ち現れるのが、本作の強い特徴である。
言い換えれば、本作は少女小説という、歴史的なるものへの安寧と抵抗というアンビバレントな感情を扱った文学形式に対するひとつの応答、ということができるだろう。
本作は『星海社 令和の新本格ミステリカーニバル』のラインナップに数えられる一作であるが、特にその〈新本格〉という語の意味するところを改めて確認するとすれば、「これまでのジャンル史を踏襲した、またはジャンルへの自己言及性を持つ、国内ミステリの一潮流」とでもなるのだろう。本作はいわゆる〈日常の謎〉や〈学園ミステリ〉などのジャンルを念頭に置いた作品であるので、新本格ミステリと言って差支えはないだろう。
しかし、ここで注目したいことは、むしろ本作の百合小説というジャンルに対する自己言及性である。(現実の不平等な現状と地続きである作品群に対する名付けとしては適当でないと思うので、それをそのまま援用したいわけではないが)百合小説というジャンルで新本格的な運動を行った作品が『セント・アグネスの純心』であるのかもしれない。
物語の序盤で、視点人物・神里万莉愛の花姉妹である白丘雪乃は上のように語る。物語にとって、あるいは人間(とその関係)にとって「謎」とはなにか。それは、「かくあるべし」という常識に支配された高エントロピーの状態から、その理に逆らう状況を想定することであろう。あらゆる物語には謎が要求され、すなわち、物語にはいつだって、反逆が潜んでいる。それをこの作中ではロックンロールと呼んだり、ミステリと呼んだり、あるいは誰かはそれを聖書の解釈の創造的読解に求めているのかもしれない。
吉屋信子に始まる百合小説の系譜は常に、継承されるモチーフと共に、あるいは、もっと言ってしまえば、イコンと共にあった。百合と死を結びつける力場は社会の要請による側面もあるためその取り扱いに注意しなければならない。レズビアン死亡症候群 : Dead Lesbian Syndromeなどもそうであるし、「資本主義社会の黎明期に「あだ花」のように登場して半ば容認されていた女同士の結びつき(「ロマンティックな友情」)は、その後も、一方では、その結びつきの脱性化を強調して女の同性愛の不可視性を強化する異性愛主義の抑圧的な言説に利用され」てきたという経緯もある(竹村和子『愛について』岩波現代文庫,6頁)。しかし同時にそのモチーフは、『花物語』を取り巻く少女小説雑誌文化でも、当事者間で、重要なイメージとして取り交わされてきたものでもある。
これに関連した議論をいくつか引きたいと思う。近藤銀河は「吉屋信子『屋根裏の二處女』読書会」(ますく堂なまけもの叢書『平成の終わりに百合を読む 百合SFは吉屋信子の夢を見るか?』)にて「投稿雑誌は女性同士の交流の場にもなっていたので、そこで女性の書き手たちのコミュニティができて、独自の作風が醸成されたということは言えると思う。その一方で、〔…〕男性が求める女性作家像というか、少女作家像に沿うかたちで発展したというか、そういうバイアスもまた、あったのだろうと想像できます。」と語っている。
また、嘉川馨は「風説の流布と情報の吟味 エスという言葉をめぐって」(LIKE A LILY.『普及版 エスの境界』,2021,45頁,46頁)において、「戦前の同性愛者への差別抑圧の痕跡であるエスは、現代において懐古するだけの意義を持たず、むしろその意義を認めるべきではない」という言説に対し、吉屋信子が「強制的異性愛制度や家父長制を補強する装いをとりながら」「抑圧を甘受しながら禁忌を巧みに利用し、逸脱的なセクシュアリティを語る場を確保した」と評価されていることを引いて反論をしている。
また、嵯峨景子は「吉屋信子から氷室冴子へ 少女小説と「誇り」の系譜」(『ユリイカ 2014年12月号 特集=百合文化の現在』)にて、少女小説の持つ役割として「物語中の少女たちのやりとりや小説全体を通じて、読者である少女自身に、私が私であることの誇りを再認識させてくれる機能」を挙げている。
本書・『セント・アグネスの純心』は上に見てきたような、少女小説を取り巻く環境に対して、非常に自覚的な作品であるように感じた。守護聖人、和歌、テディベア……作中で謎として立ち現れる概念は、どれも、女性的なるものの表象として当事者同士を結びつけてきたものである。ミステリの根幹に関係するので深くは立ち入ることができないが、これらの概念はいずれも、〈しがらみ〉と〈連帯〉といった歴史の両側面を行き来しながら、やがてそれらがアイデンティティとして受け止められるようになるまでの一連の過程にまつわるものとして描かれている。
歴史性を剥奪するのでもなく、かといって、そこに縛りつけるのでもなく、本書で描かれる対象にとっての、よりどころとなるような場所を提示することに終始しているとも言い換えられよう。これは『夢の国から目覚めても』にも通底する感触であるが、読み手に自分のための小さな庭を与えてくれるような、そうした豊かさを湛えた作品であるものと感じた。
百合小説・少女小説というジャンルに対して自己言及的な作品は、近年、とみに見られるようになってきているように思われる。『百合小説コレクション wiz』(河出文庫)収録の深緑野分「運命」や、『彼女。 百合小説アンソロジー』(実業之日本社)収録の青崎有吾「恋澤姉妹」などはその代表的な作品に数えられるだろう。また、宮田も第2回で受賞しているpixiv「百合文芸小説コンテスト」には多くのジャンル自己言及的な作品が投稿されているし、手前味噌で恐縮だが、『零合 百合総合文芸誌』(零合舎)の創刊号と第二号にわたし(=青島)の寄稿した「ドロステの渚にて」「標のない」の二作もジャンル自己言及性を持つ作品であるものと思う。
和歌や聖書、エスの制度など、歴史的な裏付けのある概念によって連帯すると同時に、それらを創造的にハックすることで、ふたたび「私」のものとして取り戻してゆくということ。いま存在することと、それを異なる位置へ置き換えることを要求すること。とどまろうとすることと、うごこうとすること。信仰と謎とを往復すること。群体でありながら同時に個でもあるということ。それらは単なる成長譚に回収されることなく、「私」にとってのアイデンティティとなる。
■宮田眞砂『セント・アグネスの純心 花姉妹の事件簿』