【バーチャル旅行】東京の奥座敷と呼ばれた温泉街「綱島駅」に名を残す「飯田家」

前回に引き続き本日は東急東横線の「綱島駅」を旅行してみます。1926年に「綱島温泉駅」として開業したのが始まりです。開業当初は温泉街として観光開発する目的で「温泉」の名前がついていましたが、戦時体制に伴い「綱島駅」に改称されたようです。

戦前・戦後は「東京の奥座敷」と呼ばれ大きな温泉街であり、最盛期の昭和30年代には80軒もの温泉旅館があり、300人の芸者衆がいたそうです。その後時代はかわり、新幹線の開通で熱海や箱根、伊豆方面に短時間で行けるようになったこともあり、2008年には最後の温泉旅館も廃業となり、その歴史を示すものを見ることはできません。その名残を示す唯一の存在とも言われる「ラヂウム霊泉(温泉)湧出記念碑」が3年前の2018年に人知れず撤去されてしまうという事件が発生しそうになりました。

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1914年に樽町地区の菓子商「杵屋」加藤家の井戸から赤い水が発見されたのが始まりで、こちらの石碑は加藤氏が私的に設置した石碑であったものの為、管理者不在で撤去されて歴史から足跡を消してしまうところでした。綱島駅のある港北区の歴史よりも長い歴史を持つ石碑が救出されてよかったですね。現在はファミリーマート樽町二丁目店の隣にある国土交通省と横浜市が管理する道路用地が整備されて設置されています

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また、移設前までは埋もれて読めなかった部分にこの石碑を彫った方の名前なども残っていて解読することが出来、歴史の穴が一つ埋まったようです

石碑の全文が見えてくるといろいろなことが分かってきたようで、こちらの記事に記載内容とその解説が書かれています

彼の地の所有者は前述の加藤順三氏とありますが、発見者は「飯田助大夫」と書かれています。こちらの十一代飯田助大夫は、大正から昭和時代の政治家(衆議院議員)飯田助夫の父で、地元では有名な素封家(大金持ち)で大綱村長や神奈川県議会議員も務めた人物であったようです。

飯田家を調べてみると江戸時代の初期に相模国金沢から綱島に移り住み助右衛門義直を初代とする北綱島村の豪農で数百年の歴史を持つ家系です。江戸末期に横浜の外国人がボストンや天津などから輸入した氷を沢山消費しているのを見聞きし、外国人から製法を聴き、改良を加えて港北地域の特産品としたそうです。農閑期には水田を使い天然氷を生産し、鶴見川を利用して横浜や横須賀へ氷を販売していました。

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その他にも養豚、養蚕(ようさん)、製茶、屎尿処理など幅広い事業を手掛けて産業振興していたようです。この地域のくみ取りについての紙芝居が公開されていました。名前は出てきませんが飯田氏も出演しているようです

飯田家についてもっと詳しく知るには、飯田家三代の俤という書籍に詳しく書いてあるようですが、1941年出版のもので絶版となっており、国会図書館などで閲覧するか、「横浜開港資料館」でも資料が閲覧できるようです。

横浜開港資料館で閲覧できる飯田家の資料は、
・海山編『広配翁略歴』(1915年)
・品川貞一『飯田家三代の俤』(1941年)
・斎藤康彦「南関東農村における豪農経営の展開と挫折」(『神奈川県史研究』40、1979年)
・港北区郷土史編さん刊行委員会編・刊『港北区史』(1986年)
・横浜近代史研究会・当館編『横浜近郊の近代史』(日本経済評論社、2002年)
・大西比呂志『横浜市政史の研究』(有隣堂、2004年)
などがあるようです。

こちらの飯田家ですが、住宅が横浜市指定有形文化財として現存しており、現在も住宅として利用されているようです。

2019年に飯田家住宅の屋根葺きが行われた映像がありました。なんと、2ヶ月間密着撮影した映像がDVDと写真集として販売されているようです。

他にも綱島駅周辺で見どころがありますが、本日のバーチャル旅行は終わりにします。綱島駅の他のスポットについてはまた別の機会にして次回はまた別の駅を探索してみたいと思います。

「バーチャル旅行」を楽しんでいますが機会があればぜひ実際に足を運んだ写真付きレポートも書いてみたいと思います。現地の空気感を皆さんにお届けします