悩みと迷いの中
人はなぜ学ぶのか。
勉強ができれば偉いのか?
私たちが学ぶのは人間社会の中でより選択肢を広げ、生きやすくするためだと私は思う。そして、数ある選択肢の中から自分自身が生きるために好きな理科をツールとして学びを教える仕事を選んだ。
今では、そこそこ名のある学校で教鞭をとっている。個性豊かな面白そうな学校だったから、学歴とか気にせずコネもなく飛び込みで採用試験を受けに行き、採用してもらった。しかし、学歴が割とモノをいう中で無名に近い大学卒の私は常にコンプレックスを持ちながら、自信を持っているふりをしながら毎日これで良いのかと迷いながら仕事をしている。
私の自信のなさのベースは“落ちこぼれの中高生時代”にある。
中学受験に失敗した。滑り止めの学校に一応拾ってもらった。中学受験の時に習ったことがあるような毎日の授業。完全に学習に興味を失った。成績は当然下がる。なのに、進学校化したかった学校側は入学時にそこそこ成績が良かった私にもっと出来るはずとけしかける。学習を真面目にやらないと不良扱い。なぜできると思っているのだろう?食べたくないのに好きでもないものを口をこじ開け入れようとする感覚。そして、それをよく思っていないクラスメイトからはイジメを受けた。教師からはイジメはされる側が悪いのです、とキッパリ言われた。ますます、学習や他人に興味を持てなくなり生ける屍同然だった。
なぜか、理科だけは成績をそこそこにできたことから、紆余曲折を経て医用工学のコースのあった大学に入った。人体に興味を持っていた私の世界観がガラッと変わっていった。好きなことを好きなだけ学習できる環境に出会った。また、高校生の時の塾の先生に勧められて個別指導塾でバイトをはじめた。学習に行き詰まった子たちの引っ掛かりが手に取るようにわかった。元“出来損ない”だったからだ。塾長からは人とのコミュニケーションが取りづらい生徒をよくお願いされた。何らかのいわゆるコミュ障と呼ばれる生徒たちと相性が良かったからだ。理解した時の生徒の目を見て嬉しく思っていた。ここに価値を見出した。
元々は研究者になりたいと思っていたが、教育に興味を持った。
教員としての入り口は学習に興味が持てない子や伸び悩んでいる生徒たちに面白い世界を見せる。また、理科の面白さを知ってもらって、その世界にぜひ飛び込んで欲しくてはじめたのだ。
自己評価が低いとよく言われるが、自分がどこまでできているのか見当がつかない。しかし、出来るところを振り絞って、出来る限りの問いを生徒たちに投げる。学生だった私と同じように迷いの中にいる生徒には手を差し伸べる。そこには迷いはない。