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糸の先は痕へ

前置き

https://twitter.com/ensemble_stars/status/935025438862163968?s=21
2017年11月29日。
『スカウト!テディベア』が公開された日です。
あの頃、あんさんぶるスターズ!にハマり1年と少し、追憶、七夕、ハロウィン、クリスマスと夢ノ咲学院におけるメインたる季節イベントを終え、あとはズ!1年目から続くフォーマットに従うと返礼祭がいつ来るかと思いながら過ごしてた頃でした。
自分がValkyrieに望む願望という名のエゴ、そのエゴを軌道に乗せるための根拠を当時わかる範囲での情報から導き出そうとしても出ず、しかし考えることが幸福でもあったので頭を働かすのが日常になっていたあの頃です。

しかし、普通に新情報が来ることの楽しみが恐怖より勝っていた頃なので、あまり構えずにいた記憶もあります。
いえ違いますね。『スカウト!テディベア』とその後に続く『スカウト!十二支前半』内『dragon fruit』、そして返礼祭によって何かの情報があった時に構えるようになってしまったのかもしれません。

言ってしまえば、それまではシナリオの出来とエピソードに裏付けられたキャラクターに惹かれていたのは本当なのですが、あくまでも「キャラクターゲーム」としての距離でいたかもしれません。勿論当時の自分なりに真剣に考えたり悩んだり、時には戯言を言ったりもしました(嘘。時にはというより日常的にしていたと思います)。
それが、一気に「この人たちには人生があって、その上でここに存在している」まで落とし込められた感覚があります。
「今ある関係性はあるべくしてあった」と納得させられたというのでしょうか。勿論、旧Valkyrie並びにValkyrieはこども時代からの付き合いではありません(斎宮宗さんと影片みかさんが幼少期一度会ってはいますが)。
では何故ユニットとして仲間として過ごしていたのか?辛いことがあっても大切な居場所として守りたかったのか?一度手折られた後そのまま消えることを受け入れなかったのか?
ここへの疑問へ「そういうキャラクターとして物語上存在しているから」以上の回答が示されているんです。あんさんぶるスターズには。
「こういう過去があったから」「ここでこう感じ」「きっとこう感じた/動いたのだ」という読み方が出来るんです。
そしてValkyrieに対してより一層それが働いたのが『スカウト!テディベア』『dragon fruit』『モーメント*未来へ進む返礼祭』だったのだと思います。

そしてその切り口となった『スカウト!テディベア』から今日で4年。
ということで、返礼祭で人間として生きることを受け入れESで芸術家とアイドルとして人間らしく生きようとしながらもどこか歪な影片みかさんがあるからこそ、改めて『スカウト!テディベア』の話をしようと思いました。
ここまでが前置きですが、前置きが長くなりました。



“糸の痕”


サブタイトル的なやつを取り上げたいと思います。
別に不自然なところは無いのですが、何故「跡」ではなく「痕」をチョイスしたのか?という点に着目しています。
「跡」と「痕」、どちらでも誤りではないですがそれぞれの漢字の成り立ちから考えると、「痕」がチョイスされたことに大きな意味を感じます。

>跡:意兼形声文字です(足+亦)。「胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「人の両わきに点を加えた文字」(「わき」の意味だが、ここでは、「積み重ねる、あと」の意味)から、「積み重ねられた足あと」を意味する「跡」という漢字が成り立ちました。
>意兼形声文字です(疒+艮)。「人が病気で寝台にもたれている」象形(「病気」の意味)と「人の目を強調した」象形(もと、目の意味を表したものだが、「め」の意味には「眼」の字が用いられるようになり、「ふみとどまる」の意味で用いられるようになった)から、傷が治り、そのしるしをとどめた部分「傷あと」を意味する「痕」という漢字が成り立ちました。
>引用元:OK辞典(https://okjiten.jp/sp/index.html)より

この「糸」というのは、人形を作るためについた跡というよりは、後からつけられた傷痕のような印象が強められます。
そしてストーリー本編を思い返すと、当時の影片みかさんは斎宮宗さんから与えられるものは「跡」ではなく「痕」の方が、痛みを伴うものの方が安心出来たのだと思います。
出来損ないの人形である自分に与えられるものはそれが相応しいと。
痛みに鈍い彼だからこそ耐えられるとも言えますし、返礼祭にて語られる彼の過去とそれに影響する自己肯定感の低さ(『スカウト!テディベア』内でも語られますが)からも優しい「跡」ではなく「痕」の方が受け入れやすかったのでしょう。


「君のこともきっと、いつまでも捨てたりしません」

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青葉つむぎさんのお言葉です。
この前に続くのは、「宗くんにとっては、お人形はみんな家族でしょう」「だからこそ、いつもあんなに大事にしてるんです」ですが、返礼祭を知る我々だからこそ、この後に続く影片みかさんの三点リーダをスルーしたくはありませんね。

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まず。青葉つむぎさんは何ひとつ悪くありません。そして楽観的にこう発言したとも思っていません。斎宮宗さんの性格をよく知り邪険に扱われながらも交流を続けようとする青葉つむぎさんの真摯な言葉です。事情を知らないから言えたのだと思っていませんし、この後に記したことで読んでくださった方にもどうな思わないで欲しい、と長い前置きをしておきます。

私は、複雑な生い立ちという共通点があり纏う雰囲気や感性に似たものがある青葉つむぎさんと影片みかさんだからこそ、その生い立ちの相違が認識の相違でもあるのかなと読んでいます。

青葉つむぎさんの家族で最も印象的なのは母親です。
青葉つむぎさんは母親に振り回され痛みや感情を遠くに追いやり他人の為に自分のことを平然と犠牲に出来る人間性となりながらも、いやなったからこそ今でも母親と離れずにいます。
疎遠となっているような兄がいるようですが、それでも離れ難い母親がまず家族像の根本にあると、私は考えています。

それに対し影片みかさんは、返礼祭で語られた過去そして「生みの親」と「育ての親」がいる発言からわかる通り、彼の言葉をそのまま借りると一度家族に捨てられています。
なので、「家族だから」という根拠だけでは彼の場合は安心たり得ない、それ故の葛藤の三点リーダだったのだと読んでいます。



「恐ろしい肉食獣でも、かわいければ抱きしめたくなるんが人間やん」

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ストーリーの終盤に置いてくる台詞ですが、これまでのやり取りを見てきて「恐ろしい熊でも愛おしいと思えば抱きしめたくなる」と言えたことを、少しでも自分に当て嵌められたのか、と思いたいですが、返礼祭での「自分を置いていくということは捨てていくこと」と思っているところと合わせると、根深いトラウマを覆すのはそう容易では無いと思ってしまう次第です。当たり前ですが。

とはいえ、「恐ろしい≒忌避するもの」と捉えて「恐ろしい肉食獣でも〜」を体良く拡大解釈し、「歪で周囲と違って遠ざけられるもの」でも抱きしめたいとまでは言わずとも、傍に置いておきたいものとしてなら斎宮宗さんに既にこの時点より前のハロウィンで思われているわけです。
まあマドモアゼルが話さなくなったからその代わりに自分に話しかけているのだ、と捉えられている時点でほぼ届いていないわけですが。面白いですね。



“テディ・ベア”


身も蓋も無いことを言うと、『スカウト!テディベア』はタイミング的にバースデーベア(チャームセット)の販促も込められていたのではないかと思うのですが、そうだとしてもValkyrie並びに影片みかさんを取り扱うに相応しいテーマでもあると思います。

テディベアが世界で初めて作られたのは、ぬいぐるみやこども服等で有名なシュタイフ社です。
そのシュタイフ社が初めてテディベアをつくった時のコンセプトが「ペットと家族の中間に位置する存在のおもちゃ」だそうです(参考:https://www.steiff.co.jp/teddybear/)。

当時の価値観だとペットは家族と見做されていない書き方ですが(ここの歴史背景には明るく無い為割愛します)、家族の基準が愛玩の対象か人間かなのだとすれば、返礼祭前、人間ではなく人形を望む影片みかさんが斎宮宗さんと対等の存在になり得るかどうか、というテーマもテディ・ベアが内包しているのではないでしょうか。


終わりに


Valkyrieの、斎宮宗さんと影片みかさんの関係性の話が進むほどテディベアとネヴァーランドに立ち戻ってしまうのですが(私の好みの問題も大いに影響して偏っています)テディベアは進むほど改めて深みが出るのでこうして振り返るだけでも、当時の倍以上見えるところが増えて良かったです。

テディベアグッズを見かけたらつい手が伸びるのも、原稿を進めず想いを馳せるのも、『スカウト!テディベア』が残した功績、いや痕を未だに引きずっているからでしょう。
現実世界の時系列的に、この後にマドモアゼルと斎宮宗さんの出会いを綴った『スカウト!ヴィクトリア』が公開されるのですが、いつかお祖父さまから貰ったテディベアとの出会いの話も深掘りして欲しいものです。

それでは、今回はこれまでで。




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