『けものフレンズ2』は『けものフレンズ』を否定しているのか。
『けものフレンズ2』(以下、「2」と表記します)の物語の特徴として、フレンズのつく嘘やフレンズ同士の対立など、「フレンズそのものの振る舞い」がキュルルの旅を妨げる障壁となって現れる点が挙げられます。毎回キュルルたちがフレンズたちの振る舞いによって「迷惑」を被る形で、物語は進んでいきました。大きな川や迷路といった外部の障壁にフレンズたちが協力して対処したり、フレンズの「困っていること」を解決したりして物語が進行していた『けものフレンズ』(以下無印と表記します)とは、この点が大きく違っています。
対立しあうフレンズたちと協力しあうフレンズたち。ストーリーから受ける印象は真逆のものでした。そのことが、「2」は無印の世界観を否定するために作られたのだ、という感想をもたらす大きな要因になっているのだと思われます。
しかし、場外乱闘の件を括弧に入れて物語そのものだけを見るならば、「2」は無印の世界観を「補完」するものではあっても、否定するものにはなっていないのではないか、と私は思います。
以下にその理由を記します。
第一に、「2」のなかに現れていた「ギスギス」の多くには、理由があったのだと私は考えています。
木村隆一監督や脚本のますもとたくやさんがインタビューではっきり答えているように、「2」のサブテーマは「人間と動物の関係」であり、登場するフレンズは、「人間の影響を色濃く受けたもの」が中心に選ばれていました。
人間と動物の関係は、作中でも明示されていたように決して優しいものばかりではありません。絶滅させたり、不適切な飼育環境で虐待に等しい仕打ちをしたりと、人間はひどいことばかりしている。逆に、野生動物に作物を荒らされたり、網にかかった魚を奪われたりして、困っている人たちもいます。むしろ緊張関係にあるほうが一般的だといえます。
村上春樹さんのデビュー作、『風の歌を聴け』で、「動物が好きだ」という女性と主人公とのこんなやりとりがでてきます。
「ねえ、インドのバガルプールに居た有名な豹は3年間に350人ものインド人を食い殺した」
「そう?」
「そして豹退治に呼ばれたイギリス人のジム・コルヴェット大佐はその豹も含めて8年間に125匹の豹と虎を撃ち殺した。それでも動物が好き?」
かなり単純化された図式ではありますが、動物が好きという人に突きつけられる問いはいつでもそれだ、というのは間違いありません。そして、動物園はその緊張関係が如実に現れる結節点のひとつでもあります。「けものフレンズ」が動物園を舞台にしたプロジェクトである以上、そこに目をつむったままでいることはできない、と私は考えます。ですから、「2」がサブテーマに「人間と動物の関係」を選んだのも、その負の側面を表現しようとしたのも妥当な選択であると思っています。
そして、それを取り上げるのであれば、「人間の影響で変容させられた動物」が物語上の障壁になるのも、自然な展開であろうと思います。
実際、『けものフレンズ2』において「障壁」として現れるフレンズたちの振る舞いには、人間の振る舞いや、動物への眼差しの影響が見て取れます。フレンズたちは意味もなく「ギスギス」しているのではなく、人間が動物に与えた影響によって、「そうさせられている」のです。キュルルは、その「何か」に巻き込まれることによって、いわば「人間の業」の代償を払う形になっています。
わかりやすいところを、順番に見ていきましょう。
第2話のレッサーパンダが自己肯定感を持てず、誰かの役に立って認められたいという思いを持て余してしまっていたのは、もともとパンダとはレッサーパンダを指す言葉だったのに、ジャイアントパンダの発見以降、「パンダといえばジャイアントパンダ」になってしまった歴史を反映したものでしょう。レッサーパンダは不人気動物ではないですけれど、その子どもをせいぜい1分ほど見るためだけに動物園に2時間待ちの行列ができたことは未だかつてありません。レッサーパンダがジャイアントパンダに対抗するためには、千葉市動物公園の風太くんのような、ちょっと歪んだ取り上げられ方にならざるを得なかった。「人間の感情でマイナな位置に押し込まれてしまった悲哀」を物語に組み込むならば、あの展開もむべなるかな、と思います。彼女のこじらせは人間のせいというわけ。
第3話のバンドウイルカとカリフォルニアアシカは、もっと直接的です。彼女たちがご褒美なしでは陸に帰せないとキュルルを突っぱねたのは、人間に教え込まれた、オペラント条件づけに基づくショーのルールに縛られていたからです。人間にそう教えられたからそうしている。動物のトレーニング法に明るくない一般視聴者にはそんなのわかんねぇよ、というのはそうなのですが、結局は人間の振る舞いが障害物として人間に跳ね返ってきているのです。
第5話では、動物を従える「ひとのちから」を(ヒョウやワニたちからは直接的に、ゴリラからはやんわりと)利用させてくれと無茶な要求をされてしまいますが、それはさまざまな野生動物を、ときに絶滅させるほどに利用・排除してきた歴史を反映したものでしょう。その前提となったヒョウとワニの対立も、種が異なりニッチ(生態学的地位)も異なる、(まれに捕食することがあるけれど)接点のない種族同士の縄張り争いの「不自然さ」を、人間活動による生息地の縮小・分断に起因する過密化がもたらす個体間の過干渉のメタファーと捉えることもできます。
第7話ではチーターとプロングホーンのスピード対決に巻き込まれてしまいますけれど、「どっちが速いか決着つけよう」というのはそれこそ人間の視点ですよね。チーターの足が速いのは別にいちばんになりたかったからとかではなくて、ただただ獲物を捕まえやすくするための適応です。プロングホーンも同様に、ただただ捕食者を振り切るために走っているだけです。インパラもニホンジカもオセロットもアカカンガルーもモウコノウマもウンピョウもホッキョクウサギも。動物は順位なんて気にしていない。それらに対して、「どっちが速いんだろう?」「いちばんはどれだろう?」と順位を決めたがるのはあくまで人間で、作中でプロングホーン自身が言っているように「いちばん」の基準自体があってないようなものであるところで、順位を決めたがるという一方的な視点の跳ね返りを受けた形なのだと思います。
第9話については言うまでもないかもしれません。仲間の犬よりも飼い主のために命を張るほど、人間に対して深い精神的な結びつきを持つようになった最古の家畜をひとりぼっちで残したら、それは分離不安症から異常行動を起こしても当然、といえます。
第10話から最終話では、キュルルの描いたフレンズの集合絵から大量のフレンズ型セルリアンが生まれ危機に陥りますが、これはもともと数千万単位の群れで生活していたものの人間の手によって絶滅させられてしまったリョコウバトが、寂しさを紛らわせるためにキュルルに自分の絵を頼んだことがきっかけになっています。リョコウバトが今でもアメリカ大陸の空を覆い尽くす存在だったら、発生しえなかったイベントですね。
このように、「2」は、人間の影響によって変容させられた動物の、その「変容した部分」が物語上の障壁となる、という形で構造化されており、やみくもにギスギスさせているわけではないのです。
第二に、その「ギスギス」は、「乗り越えられるべきもの」として描かれていたと私は捉えています。
作中でキュルルは、人間の影響を受けた動物の、その「影響を受けた部分」に対応した「遊び」を提案することで、フレンズたちの抱える問題を解消しようとしていました。
第2話では遊具を作る過程でレッサーパンダの能力を褒めることで「承認」を与え、第3話ではイルカやアシカの能力をより引き出せるような遊具と遊び方を提示して自発的なパフォーマンスを引き出し、それを賞賛してみせることで「以前のルール」から彼女たちを解放しています。第5話では「ひとのちから」を相対化してみせると同時に、(カタルーニャ・ナショナリズムに対するリーガ・エスパニョーラのクラシコみたいな)代理戦争を提案することで縄張り争いの緊張を緩和しようとし、第7話ではリレーを通じて「勝ち負けの基準」を示すことで彼女たちの気持ちをすっきりさせようとしています。第9話では、「遊んであげる」こと自体でイエイヌの寂しさを癒そうとしたのでしょう。キュルル自身が未熟なので、前提の誤りや不発と感じられることもありますが、本人の主観的には、フレンズたちの問題に対応した「遊び」を提案しようとした、ということだったのだと思います。
なお、フレンズ自体が障壁となっていなくても、人間が動物に、正確には飼育下の動物に強いている問題が提起されて、キュルルがそれに回答を出す、という場面も出てきます。第4話では、洞窟で雨宿りを余儀なくされ、サーバルたちが退屈してしまいますが、狭い洞窟では狩りごっこのような「自由に動けるときの遊び」ができないことが示され、代わりにキュルルがパズルを作ります。これは、飼育下で行動が制限された動物の退屈に対する遊びによるエンリッチメントのメタファーでしょう(キュルルの「遊び」がエンリッチメントの意味合いを持つのは、ピンポイントで「ここ」だと考えています)。
もちろん、これらのキュルルの行為は、直接的には、「キュルル自身が先に進むため」のものであったのだとは思います。けれども、これらの行為の積み重ねから、ビーストに対して「わからないとしても、わかろうとしたっていいでしょ」と発言するようになり、最終話で「みんなのために何ができるか考えたい」という結論に至ったキュルルの目に、フレンズたちの「ギスギス」が解消されるべきもの、乗り越えられるべきものとして映っていることは想像に難くありません。
最終話においてキュルルは、自業自得で招いてしまったトラブルのために場合によってはお互いの対立も越えて身体を張ってくれたフレンズたちを見て、「優しくてあたたかい場所はここにあった、僕のうちはここでいい」と結論づけます。ここでの「優しさ」や「あたたかさ」は無印においてかばんちゃんのために結集したフレンズたちのそれと同質のものといえるでしょう。そして、「そんなみんなのために自分になにができるか考えたい」というわけですから、その目指す先は、たつき監督の描いた「優しい世界」とそう異なるものではないはずです。作中でそのまま描かれたわけではなくても、その先にある理想形として「肯定」されていることは間違いないのではないでしょうか。
以上のことから、私は「2」を、「無印の世界観を肯定しつつ、プロジェクトとして避けては通れない部分を補完しようとした作品」であるのだと捉えています。そもそも、無印で描かれていた世界観も、たつき監督の完全オリジナルというよりは、もともと「けものフレンズ」の世界に内在するものだったからこそ(少なくとも合致するものだったからこそ)、「けものフレンズプロジェクト」として世に出ることになったものであるはずですから、それを否定するというのは(クリエイティブの側面からは)考えにくいのではないでしょうか。「2」は、無印で描かれた世界とは異なる視点から人間と動物の現実を描いたというよりは、無印で描かれた「理想」に近づくために解決しなければいけない問題にアンダーラインを引くために「現実」を描いたのだと私は思います。結局のところ、言いたいことはどちらも同じ、だと思うのです。
無印のあとの時代という設定を採用しながら、ストーリーラインに引きずられてなのか、無印において「優しい世界」を体現しているキャラクター(PPP、かばんなど)を「ギスギス」の側へ引き戻してしまった印象があることや「ギスギス」にいたるフレンズたちの事情を読み取りにくいことなどは失点だと思いますし(漫画版ではわかりやすくなっているし言葉遣いもトゲ抜きがされているようなので、アニメの表現も故意ではなく過失なのだと思います)、やっぱり説明不足の感は否めないのですが、まっこう否定するために作られた、というのは無理があるように感じています。
そう思って、素直に楽しめる状況になってほしいと思います。
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