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親ガチャという幻想

 “親ガチャ“とは、抽選式のガチャのように、子供がどのような家庭環境に生まれるかは運頼みである、という意味で用いられるワードだそうだ。
 私自身の人格を疑われることを覚悟の上で発言するが、私は自分の両親に対する思い入れが一切ない。長生きして欲しいなどと微塵も感じたことはないし、ホームシックにかかった事も一度もない。もう生きていく上で一生会えなくてもいいとすら思っている。

 私は親ガチャに比較的恵まれていた方だったと、近年になり実感した。皆が羨むような裕福な生活をおくったわけではないが、幼少期から何不自由なく習い事や塾に通わせてもらい、四年制の私立大学を卒業させてもらえた程度のガチャではあった。以前はそれを「普通のこと」だと思っていたが、周りと比較することで、自分が恵まれた環境で育ったことを改めて認識することができた。

 さぞかし両親から大事にされて育ったのだろう、と貴方は思うだろう。学業的な面で言えば、確かにそうだったかもしれない。しかし「私には私の地獄がある」とはよく言ったもので、私にとっての幼少期の両親との記憶は地獄そのものだった。

 そもそも私は「育ててもらった恩義」みたいな言葉が嫌いだ。誰が産んでくれと頼んだ?勝手につがって私を産んだくせに、恩着せがましく育ててやったなどと言うな。親が子供を育てることなんて当然の義務だし、まるで動物のようにネグレクトするやつが異常なだけだ。

 両親に対してそういった感情を抱くようになった原因としては、幼少期〜青年期にかけての親による過剰なスパルタ教育とヒステリーからくるDV以外に他ならない。私がアメリカで過ごした小学校高学年〜高校1年生までの6年余りの歳月は、私の精神を歪ませるには十分すぎる時間だった。親も親で40代になってから仕事の都合で唐突にアメリカでの生活を余儀なくされ、精神もかなり参っていたのだろう。私は度重なる苛立ちの吐口としてのヒステリーや、尊厳無視の暴言・怒号を絶え間なく浴びせられていた。反抗しようものなら、腹いせの様に度々ネグレクトされていた。車の免許も持たない10歳の少年が広大なアメリカの大地で家出なんて出来るはずもなく、私はただただ両親を怒らせまいと、顔色を窺う日々を送っていた。こんな生活が18歳まで続いた。
 
 親の希望どおり高偏差値の大学に合格した私は、入学後にすぐアルバイトを始めたことで、ある程度の資金を手に入れた。私にとって金は自由を意味した。金さえあれば両親を頼らずに済む。内定がもらえるまで「良い子」のフリさえしていれば、親元から離れることができる。そのモチベーションで日々の就職活動に勤しんでいた。1日でも早く私はこの親がいる家から逃げ出したかった。

 知人に私の実家が埼玉南部だと言う話をすると、決まって「実家帰らないの?住めばいいのにw実家めちゃくちゃ楽だし最高だよw」といったクソリプをされることが多いのだが「こいつの家は帰りたいと思えるような良い環境なんだろうな」と思わされるだけ不快だ。私からすれば実家に帰るくらいなら毎月10万以上の家賃を払った方がが「安い」のだ。実際、私の実家は今の住居から30分程度で行ける場所にも関わらず年に1、2回しか帰っていない。書類や洋服を取りに行く時も、親がいない時間帯を狙って行く徹底ぶりである。
 幼少期から父が転勤族だった私には「地元」というものがない。学友も全国に散り散りになっているので同窓会は勿論、成人式にも参加しなかった。自室に備蓄された大量の書物が読めること以外に、実家に帰るメリットが何一つないのである。

 人間の記憶とは都合のいいもので、両親は私が「成人してから急に性格が変わり、薄情な一人息子に変貌してしまった」と考えているようだった。自分達が幼少期に私にトラウマを植え付けた事など、都合の悪いことはこれっぽっちもおぼえていない。加害者側によくある話だ。いちいち理由を説明する義理もない。私はあなた達の手を借りない、そのかわり老後の面倒を見ないと伝えたことろで僕と家族の話し合いは終わっている。

 両親と会うのは多くても年に2回、仮に80まで生きたとしてもあと15年程度。私の両親は私とあと30回も会わないうちにこの世を去るだろう。それで良いと思っている。あの時もっと親孝行していれば…あの時もっと優しくしていれば…親の棺を前にしてもそんな感情を持つことはないと断言できる。

 そもそも私に結婚願望がないのも、喧嘩ばかりして怒りの矛先を私に向けてきた両親のせいでもある。私のような子供をまた生み出してはならない。負の連鎖はここで断ち切らねばならないんだよ。「家族と仲の良い男性って素敵」「親への態度は将来の自分への態度」うんうん、わかるわかる。糞食らえ。お前たちは"子供ガチャ"に失敗したんだよ、ざまあ見ろ。

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