見出し画像

せめて、いつか必ず来る3月7日の話をさせてくれ。




「ひかりのうみにて、きみをまつ。」


1

 ようやくありつけた心地の良い微睡は、しかし、長続きはしなかった。
 無情にも鳴るアラームの音が、夢の世界へとしがみつこうとする私を大きな力で引き起こす。
 数秒の無駄な抵抗の末、観念して重い瞼を開ければ、そこは見慣れた自分の部屋だった。薄暗いどころかまだ真っ暗で、確認せずとも恐ろしく早い時間――もしくは、恐ろしく遅い時間――であることが分かる。
「さっむ……」
 一年で最も寒冷な時期を越したとはいえ、春は未だ遠い――と大の寒がりである私は思う。その耐え難い寒さに容赦なく攻め立てられ、私は堪らず暖かい布団の中に頭まで潜り込んだ。
 片手だけを布団の外へ出し、手探りでスマートフォンを探してアラームを止める。返す手で枕元に放ってあるリモコンを掴み、暖房を付けた。
 せめて、もう少し室温が上がらないことには、布団から出られそうにない。
 いや、まず、布団から出る必要があるのだろうか。少なくともまだしばらくは惰眠を貪っていても許される時間だと思う。
 ――そもそも、どうしてこんな時間にアラームが鳴るのだろう。
 私は普段から早起きをするような殊勝な人間ではない。むしろ、出来得る限り布団という楽園に立て籠もり、人間斯く在るべしと声高々に主張してやまない。
 大体、今日は休日であるはずなのだ。長く辛い平日を乗り越え、やっとのことで辿り着いた休日の朝。
 だというのに、こんなに早い時間に叩き起こされる羽目になるなんて。
 とはいえ、私のスマートフォンのアラームを設定する人間など、自分以外にいるはずもない。なら、この時間にアラームが鳴る、何かしらの理由があるはずで――しかし、寝起きの頭はまだぼんやりとしていて、要領を得ない思考が走るばかりだった。
 再び布団から片手だけを出し、スマートフォンを引きずり込む。ひんやりとしたそれが、手に気持ち良い。
 触れるとロック画面が表示されたけれど、それがあまりに眩しくて、私は目を細めた。
 数瞬遅れて、調光機能が働く。それでもまだ少し眩しかったが、直視できないほどではない。
 時間は――やはり、早朝だ。少なくとも、私が活動できるような時間じゃなかった。
 続けて、日付を見て――
 その瞬間。
 私は思い出す。
 今日がどのような日なのか。
 今日という日を、私がどれだけ待ち侘びたか。
 途端に、世界は色とりどりの輝きに満ちた――いや、元よりそこには無数の欠片が散りばめられていたのだ。光を乱反射させるプリズムの欠片。鮮やかな色彩が、私を突き動かす。
 私は布団をはね除け、文字通り飛び起きた。
 まだちっとも暖まっていない、痛いほどに冷たい空気が、私の肌を刺す。
 けれども、最早、それが私を鈍らせることはない。
 どくどくと高鳴る心臓が、身体の隅々へと熱い血を巡らせる。
 そうだ、私はこの日のために頑張ってきたのだった。
 ああ――今日は三月七日。
 つまり。
 そう。
 あの子の誕生日だ。


 家を出る直前、玄関にある姿見を覗き込む。
 映っているのは、精一杯身嗜みを整えた私だ。
 正直、自信など持てるような容姿ではない。
 なんとも地味で、どうにも冴えない自分の顔。くすんだ色の瞳。くせっ毛で収まりの悪い髪。
 これまで特別誰かの目を引いたことはないし――これからだって、きっとないに違いない。
 けれど、それでも。
 もし。
 そう、もし、だ。
 今日の私が、あの子の視界に、ちらりとでも入る可能性があるのなら――私は、出来得る限り、最高で、最強の私でいたい。
 思い切って手に取った明るい色のスカート。
 質感も着心地も一等気に入っているニット。
 秋口に店先で一目惚れして買ったコート。
 着飾ったところで、大したものにならないのは私自身が一番分かっている。これはただただ、私自身の自己満足と、意地と、見栄の表れに過ぎない。
 でも、なんだか楽しくて。
 でも、なんだかうきうきとして。
 私は自然と笑顔になる。
 浮つく心のままに、私は勢いよく外に飛び出した。
 少し支度に手間取ってしまったから、外は随分と明るみ始めている。
 しまったな、もう少し急ぐべきだったかも――そうは思っても、最早仕方がない。
 首に巻いたマフラーを口元まで引き上げながら、私は足早に歩く。


2

 早朝のホームに滑り込んできた電車は流石に空いていて、難なく座ることができた。この路線には長めに乗っていることになるので、幾分かありがたい。
 向かう先は都心にあって、自宅の最寄り駅からだといくつかの路線を乗り継ぐ必要がある。少なくとも一時間半はかかることを加味すると、到着はそこそこの時間になりそうだった。
 ふうと一息をついて、私はスマートフォンを取り出し、SNSを開く。
 表示されたそのタイムラインは、同好の士たちによる呟きで溢れていた。
 出発!――眠たすぎて立ったまま寝そう――現地はもう人いるのかな――なんとか起きられた――等々。
 普段から同じ人物を好み、時に同じ名前で呼ばれ、そして、今日は同じ場所を目指す人々。
 もっとも、私自身と彼らの関係はとても希薄だ。私は彼らのことをよく知らないし、話したこともない。そもそも私は基本的に読むだけだから、彼らは私の存在すら知らないに違いない。
 それでもなお、私は彼らに対し、親近感や仲間意識のようなものを抱いている。
 ぼんやりとして捉えどころのない、けれども確かにそこに在る何か。
 何故だか居心地の良い、不可思議な関係性。
 他でもないあの子を中心とするそれを、私は気に入っていた。
 しばらくの間、流れていく彼らの投稿を眺めてから、ふと珍しく気が向いて、自分も投稿画面を開いた。
 楽しみ。
 それだけ入力して、投稿する。何についてかも、誰に向けたかも分からない小さな呟きは、私自身と同じようにきっと誰の目も引かずに流れていった。
 SNSを閉じた私は、次にメモ帳のアイコンをタップする。
 最終更新時刻は三月七日の午前二時過ぎ。それは、昨夜の悪戦苦闘の記録だった。
 手紙を書こうとしていたのだ。
 あの子に向けた手紙――つまり、ファンレターというやつで。
 けれど、それは未だ真っ白のまま。
 勿論、今日まで引っ張るつもりなんてなかった。封筒や便箋はずっと前から用意していたし、何を書こうか考え始めたのだってここ数日の話ではない。
 ただ、どうにも全然、形になってくれないのだ。
 書いては消し、書いては消しを繰り返し――気付けば前日。そして、当日になってしまった。
 伝えたいことは山ほどあるはずだった。
 ただただ純粋な、好きだという気持ちとか。
 いつだってそこに居てくれることへの感謝とか。
 私の心を奪う、そのきらめきの眩さとか。
 けれども、私の抱くそれらをそのまま文章へと落とし込むのは、想像よりも遙かに難しい。
 そもそも、文章を書くのはとても苦手で。
 ファンレターを書くのなんて初めてで。
 ああ、でも。
 もう、大して時間は残されていない。
 電車に揺られ、時折欠伸を噛み殺しながら、私はようやく、ぽつぽつと言葉を重ねていく。
 拙いそれを、重ねていく。
 きっと、どうしようもない乱文になるに違いない。
 野暮ったくて、とっ散らかっていて、よくわからない、そんな手紙。
 それが、今の私の精一杯だ。


 目的の駅が近付く頃には、なんとか――本当に、なんとか――手紙の下書きを終わらせることができた。後は、どこか落ち着いた場所で、便箋に清書するだけだ。案の定、その文面はどうにも酷いものだったけれど――少なくとも、思いの大きさだけは伝わるような気がした。


3

 その駅周辺は、三〇年ほど前に完成した、いわゆるニュータウンだった。
 綺麗に整備された広場のある駅前と、その周辺に立ち並ぶ商業施設。そんな中央地区を、住宅地と複数の大きな公園が囲む。
 付近の都心部に対する副都心的役割を担っており、駅の利用者数平均は一日あたり一〇万人に近付こうとしている――らしい。
 らしいというのは、それがネット上で得た受け売りの知識に過ぎないからだ。
 駅から目的地への道を調べた際、その街自体のことにまで手を広げたのは、私の検索癖と、少し――少し、だと思いたい――重い感情がゆえだった。
 私にとって、ここはちょっとだけ特別な場所になるだろう。
 幾度も思い返し、その度になんだか顔が綻ぶような、特別な街。
 そんな街のことを、少しでも知っておきたい。そう、思ったのだ。
 駅に降り立った私は、その風景を眺めながら、目的地を目指して歩く。
 といっても、それは駅の間近に建てられた複合商業施設の一つなので、迷う暇もなく着いてしまうのだが。
 その中にある、大きな映画館。
 そこが、今日の私の目的地で。
 そこが、今日のあの子の晴れ舞台なのだ。
 もっとも、彼女が舞台へと上がるのは夕方からである。
 ならば何故、午前中の早い時間にここまで来ているのかといえば――偏に、あの子のグッズの物販があるからだった。
 ――ふと、今の自分を客観視してしまう。
 普段はのんべんだらりんと過ごしてばかりの休日に、早朝から起き出し、しかも精一杯のお洒落までして、ここに居る自分。
 それがなんだか不思議で、ちょっと誇らしく、ちょっと気恥ずかしい。
 私は誰に見られているわけでもないのに少し俯く。やや熱を持ってしまった頬を、マフラーに埋めて隠すように。


 あの子と私――もしくは、私たち――の関係性について、一言で表現するのは難しい。
 近い概念はもちろんあるけれど、そのまま適用できるわけではない。
 それは、やはり、その存在自体が新しいもの――既存の枠組みではなく、新しい枠組みで語られるべきものであるからなのだと思う。
 それでもなお、強いて言うのであれば、やはり「アイドルとファン」という関係性がより近しいだろうか。
 自身の道を邁進するあの子を、私たちは日々見つめ、応援している。
 その姿は、私たちを支え、励まし、癒やし、突き動かす。
 その存在は、私たちの世界を鮮やかに彩る。
 輝かしきその躍進を、まるで自分のことのように歓び。
 弛まぬその努力に、強く感化され。
 そして、時には――そう、時には、そこにある途方もない隔たりや、自分の無力さに、心を掻き毟られたりもする。
 そんな、ある意味偏った、少し歪な関係性が、私は好きだ。
 いつまでだって続けていたい。
 そうとさえ、思う。


 気付けば、私は大きな袋を持って立ち尽くしていた。
 袋はずっしりと重く、それは満足感と達成感を私に与えてくれる。
 時間は既に昼過ぎ――けれども、私としては、思っていたよりも早めに物販を終えることができて安心しているくらいだった。
 これで、手紙を書くことに注力できる。
 施設内で見掛けたコインロッカーに手荷物のほとんどを預けてから、私は喫茶店へと入った。
 休日の昼下がりなので、席はほぼ埋まっていたけれど、運良く隅の一人席に潜り込むことができた。
 注文した紅茶を味わい、甘い焼き菓子を楽しみながら、少しばかり落ち着く。
 改めて店内を眺めれば、おそらく同類、ある種の仲間であろう人々がちらほらと居ることに気付く。
 なんとなく分かるのだ。
 例えば、見覚えのある大きな袋とか。
 バッグにさり気なくついているストラップとか。
 あとは――期待に満ちた、きらきらとしたその瞳とか。
 私自身もまた、同じように見えていることだろう。そう思うと、どうにもおかしく、私はこっそり笑んだ。
 気を取り直して、私はそれらをテーブルの上に広げる。
 筆記用具と便箋、封筒、そして、あの下書きのメモが入ったスマートフォン。
 便箋と封筒は、とても可愛らしいものを選んだ。
 あの子が喜んでくれそうな、可愛らしいものを。
 ふうと一息吐いてから、そっと書き出す。
 何かと不器用な私は、例に漏れず悪筆なので、出来得る限り慎重にペンを動かしていく。
 一筆一筆を丁寧に。
 時間を掛けて、ゆっくりと。
 焦る必要はない。
 慎重すぎるくらいでいい。
 そう、心の中で自分に言い聞かせる。
 その黙々とした孤独な行為は、まるでその手紙に自らの心を注ぎ込むようだと思った。
 この腕を、この手を、この指先を通して。
 何かが伝わることを、祈るように。
 そして、やがて。
 それを、注ぎ終える。
 二度三度と繰り返し誤字脱字のないことを確認してから、優しく便箋を折った。
 封筒に入れ、用意していたシールで封をする。
 その瞬間、深く入り込んでいた集中が途切れ、私は大きく溜め息を吐いた。
 気を張って動かしていた腕からは、少しの熱と鈍痛が感じられる。
 けれども、それを休める時間は与えられなかった。
 時計を見れば、当然ながら随分と時間が経ってしまっていて。
 それは、もうぐずぐずとはしていられないほどで。
 私は慌てて立ち上がり、喫茶店を飛び出す。
 さあ。
 行こう。


4

 この感覚を。
 この空気を。
 この光景を。
 どのように表現したらよいだろう。
 どんな言葉であれば、表現し得るのだろう。
 きっと、私はそれを十分に表すことができない。
 それでも。
 それでも、言葉の限りを尽くそう。
 その言葉が、どれだけ陳腐で、どれだけ月並みなものであろうとも。
 きみが、少しでも想像できるように。


 その大きくて分厚い扉をくぐり抜けた先――その空間は、既に光の海だった。
 照明が絞られて薄暗いそこで、海面が煌々と光る。
 私はその海を泳ぎ、自分のために空けられた場所を探す。幸いにして、すぐに見つけることができた。
 海は鮮やかなピンク色をしている。その光の一つ一つは、そこに集う人々が握るペンライトだ。
 棒状のもの――ハートに十字のラインが入ったもの――デフォルメされたうさぎを模したもの――数え切れない無数の光は、穏やかに揺れている。そう、少なくとも表面上は、穏やかに。
 つられて、手元のペンライト――私のそれも、ハートの形をしている――に光を灯せば、私もまたその海の一部となる。
 空調がよく効いているのか、冷たい風が私の頬をそよいだ。けれども、寒いとはちっとも思わない。
 むしろ、ここはとんでもなく、熱い。
 私は、確かにその熱を感じている。
 今はまだ穏やかな海面の、その下。
 ゆっくりと静かに、まるで生き物のように胎動する熱を感じている。
 それは、恐ろしく膨大なエネルギーだ。
 漏れ出でたその放射が、肌をひりつかせる。それが、妙に心地良い。
 私の――いや、私たちの足下で蜷局を巻くそれは、ただただ機を窺っているようだった。
 そこから飛び出し、海面を突き破り、高く大きく声をあげながら、この空間を縦横無尽に駆け巡るその瞬間を。
 視線を上げれば、無数の光の向こうに、大きな舞台を見ることができる。
 今はまだ空っぽのその舞台が、光の海の中にぼんやりと浮かび上がっていた――ああ、なんて、なんて綺麗なんだろう。
 私たちは揃って、そこを見つめている。
 言葉にならぬ声。
 熱い息遣い。
 さらにその数を増す光。
 どこまでも張り詰めた空気。
 その瞬間が迫れば迫るほど、私たちは研ぎ澄まされていく。
 私たちは、待っている。
 この光の海に揺られながら、待っている。
 待ち望んでいる。
 待ち焦がれている。
 ――何を?
 ――誰を?
 そんなの、決まっている。
 見つめる先。
 その舞台に立つべき、たった一人を。
 他でもない、きみを。
 きみだけを――


 ひかりのうみにて、きみをまつ。






 以上、「ひかりのうみにて、きみをまつ。」全文です。
 元々は、惜しくも中止となってしまった名取さなちゃんのお誕生日イベント「さなのばくたん。 -バースデイ・サナトリウム- Powered by mouse」でのプレゼントのためだけに作った本です。webでの公開の予定はありませんでしたが、もしかしたら、万が一ぐらいで、誰かの慰みになるかもしれないと思ってしまったので公開しました。こんなことしかできなくてごめんなさい。


名取さなちゃん、ぎりぎりまで頑張ってくれてありがとう。これからも応援しています。


2020年3月5日 冬日あおい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?