電脳耳栓の話


電脳耳栓って

心の平穏の為に大事なものなんですよ。






フィルター、ブロック、ミュート、リプ制限

色んな耳栓ありますよね。





しかし往々にしてこういった手段を用いて

自衛、区別、選定、裁断

それらを行う人に対してこんな事を言う人達がいるんです。





『肯定的な意見だけを取り入れてる』

『逃げてる。卑怯だ』

『他人の声を聞き入れる勇気も度量も無い』






アホかと。





それを言っていい相手は恒常的に世間に対して

『私はいかなる万人の声も
広く余す事なく聞き受け入れるんで』


という夢物語や出来もしない政治スタンスを標榜して

自己権益へ繋がる人気とりに勤しんでいる方相手にだけです。






各サービスに標準搭載されている機能を用いて

見当違いな悪意や憶測や先入観で

わざわざ他者を攻撃する事でしか充足感を得られない。


そんな可哀そうな人達相手に

各サービスに標準搭載されている機能を用いて

自衛、区別、選定、裁断を行う事の何がいけないのか。





意見を取り入れたり受け入れる事と

一方的な悪意からサンドバッグにされる事は全く別のものです。




『自分の攻撃は余すことなく受け入れられるべきで

相手は常にサンドバッグであるべきであり

だから対象が自衛する事は許さない』






一体、卑怯なのはどちらなのかという話。





一番良くないのは

『自衛やゾーニングする事は罪』

といった風潮をさも常識かの様な流れを作り

そうした機能を使う側に自衛を躊躇わせている事です。




自覚的なものにしろ無自覚的なものにしろ

自分に向けられているにしても、他者に向けられているものにしても

そういった悪意が目に付き『自分が不快感を感じた』のであれば

それを視界から外し、黙殺し

己の世界から排除したって全然いいんです。


それは排斥でも逃避でも不寛容でもない。




人には自らの精神の安寧を守る権利がある。




そして同時に




自らの精神の安寧の為に

悪意をばら撒いて憂さ晴らしをする事など

絶対に許容されていいものじゃない。





かつて電脳の海は自由な場のはずでした。



幼い頃、この世界を知った私は

無限の可能性と人との繋がりに期待を膨らませていました。

だけど現実の今は違ったものになってしまっている様に思う。




目に付きづらい所だけで燻っていただけの悪意が

隠す気もなく臆面もなく他者に向けられる。


気軽に、無責任に、不必要に、不用意に。


それをしやすい場を提供してしまっている。

そんな場になってしまっている。




そんなものが溢れかえっている

ある種、現実以上におぞましい世界になってしまった。




私達が目指し焦がれ夢見た世界は

こんなものではなかったはずなのに。







だからいいんです。


そんなものだらけだからって

そんなものは受け入れてやる必要性などどこにもないんです。



だから耳栓、しましょ。






楽しい事だけを見て、聞いて、感じて

自分の心を少しでも豊かに過ごせるようにしていいんです。




本来、電脳の世界はそれが許される

リアルに対する心のセーフティハウスみたいな

そんな役割を担っていた場のはずなのですから。

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