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ポケットにファンタジー?

(以後は支離滅裂な文章をシラフで書いたものです)

「はやく おとなに なりたいんだ」
こう思ったことが何度あっただろうか。
大人はいつも眩しく見えたものである。
食卓に並ぶお酒、新橋のSL広場で煙をくゆらせるサラリーマン、車を運転する親の背中・・・言い出すとキリはない。

自分が踏み入れてはいけない領域、すなわち禁足地には魅力がある。
人は「知らないこと」が興味を持つ第一歩となりやすい。
だから、知ってしまうとすぐ飽きる。サンタが誰だとか。

最近、20歳の壁を超えたことでいろいろな制約から解き放たれた。
要はモノを知ってしまったのだ。
酒は飲んだが美味しさは感じなかったし、ヤニはそもそも吸う気がない。
だからといって夜の街に繰り出すこともなく、賭け事も乗り気ではない。
つまり、できてもやらないことが増えただけである。

ところで、タイトルは「ポケットにファンタジー」という歌から拝借した。
子どもは大人に憧れ、大人は子どもに戻りたいという素直すぎる歌詞である。
「一日だけでも なれないかな?」
「なれっこないよ」
あまりにも無邪気で、残酷だ。
知ってしまったら、戻れない。禁足地に閉じ込められてしまっている。

最近は何の代わり映えもしない日常生活の繰り返しで、いつの間にか「知らないこと」は減っていった。
逆に「知っていること」は学んで増えた。同時に、色褪せた。
でも誰も止めてはくれない。既知の場所なのに、だ。

子どもの頃、憧れだった大人たちも今ではただの同種に過ぎない。
知らないことだらけのガキには丁寧に教えるくせに。
対人恐怖なのかはわからないが、人と関わらないことも多くなった。

物の道理がわかった奴にはもう誰も干渉してこない。
思うに、「知っている」からこそ隔たりが生まれるのだろう。
そして無意識に逃げやすくなるのではないか。
壁は超えたが、実行したものは殆どない。
まず権利から逃げた。次に存在から逃げた。最後に「好き」から逃げた。

多分「好き」は興味の一部に過ぎない。だが、確実に色を付ける要素だった。食べ物も、趣味も、人も。

冷笑主義と他者評価がはびこる現代で「好き」やら「推し」を明言するのは勇気がいる。自分はそれになりきれなかった、それだけだ。
気づけばいつもあちら側にいた。サイレントマジョリティーとして。

周りに誰もいない場所に来て、孤独を知った。
これまでの不自由さを呪った。
自分の不甲斐なさに気づいた。
こうして、「知ったこと」で色が消えた。

「もう一度 子どもに 戻ってみたいの」
戻れたら、色は帰ってくるだろうか。

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