毒親という言葉は嫌い

 「世のため人のために生きよ」とは言うが、みんなそうするなら一人ぐらい自分のために生きてみてもそれは無視できる誤差なのではないか。
 これが最近の口癖である。
 というか、「世のため人のために生きる」ことが自分のお金になって自分が生きられるというのがこの資本主義社会の決まり事なのだから、あの標語はやっぱり同語反復だというほかないから今日を機にそんな口癖やめてしまおう。

 親元を離れて、自分で仕事して金を稼いで生きていく。どうして社会はそれを許さないのだろう。親を大切にしろ、そして家族を作れ、と要求してくる。少なくとも僕が投げ出されたのはそういう社会だった。そんなの、耐えられるわけがない。親と子に縛られる中間物としての人生に、他人がなぜ適応できるのか疑問であるけれど、高校生の自分にはそれができたと思う。親を大切に思うことが素晴らしいことだと思っていたし、家族を作ることがありふれた幸せだと思っていた。
 いつから変わってしまったんだろう。
 たぶん、親の期待と自分の希望が同一性を失ってからである。親は偉大さに価値を見出し、僕は優しさに価値を見出した。
 親、とくに母は、いい職につくよう僕を教育してきた。僕も、それがいいと思っていた。多分、自分はいい職につくべき優秀な人間だという自意識があったから。
 でも受験に落ちたのをきっかけに、自分が優秀だという自己認識は崩れ去った。親の思う「我が子が優秀」は長く続く幻想であり、子が思う「自分が優秀」は現実にやすやすと壊される儚い幻想なのかもしれない。
 そこから、ズレた。親は未だに「我が子は優秀、良き企業に勤め、賢き子を育むべし」と思っている。一方の僕は「学問の世界は僕には厳しい。一般に良いという職に就くつもりもないし、遺伝子を継承するつもりもない」と思っている。
 だから今の僕は「親の住むこの土地から遠く離れ、簡単な仕事をもらい、生活をやりくりしながら、ずっとやりたいと思っていた絵の勉強に没頭したい」と思っている。
 こんな話は、肯定のされようがない。親を裏切る行為になる。裏切りというのは、僕が考えてきた以上で最大の悪だ。
 人は互いを殺してはならない。その約束を裏切るのが殺人である。
 自分の経済生活を支えてくれた親には感謝しなくてはならない。敬わなければならない。恩を返さなくてはならない。そういう全てへの裏切りを、僕はこの春実行しようとしている。
 18の頃からずっともやもやしていた。5年間、SOSは出し続けた。けれど、もう限界だ。
 親が悪い人間だとは思わない。どちらかといえば裏切る自分を不道徳で失礼な人間だと卑下しているのかもしれない、どこか心地よい背徳感とともに。
 退学、仕事探し、引っ越し。怒涛の春になる。なのに、どこか高揚している。この先どうなろうが、全て自分の責任で生きていく。それが嬉しい人間なんだ。誰かの世話になんてなってたまるかという頑固心を満足させてくれる今なのだ。
 

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