生きたいようには生きられない

やりたいことに似た 逆の事
誰のための誰
分かち合えない心の奥
そこにしか自分はいない

beautiful glider
BUMP OF CHICKEN

 人は生まれたとき、誰かの助けを受ける。レヴィナスの言葉で言うなら、他者からの恩恵を享受する。
 そして、言葉を教えられる。ママだとか、パパだとか。電車だとか、車だとか。
 一人では生きていけないから、生まれて数ヶ月あるいは数年、人は必ず育て親とともにある。その中で、言葉を教えられる。そうして、世界ができていく。
 世界樹(ユグドラシル)。今まで私が教わったすべての言の葉が枝から生えた樹木。感性の土壌に親が種をうえ、光と大気の中、育ちゆく心の樹木。
 ある日、幼児は一人でトイレができるようになる。リビングからトイレへ向かう途中、それは幼児の日常の中ではとても貴重な、一人の時間である。その時、私は一体何を考えていただろう。
 例えば、飲みの席の途中、トイレにいくとき、誰だって一人の時間になる。その時、席についているときには考えなかったようなことがあれこれ頭を巡ることを私は知っている。幼児はそんなふうに考えるだろうか。親が話してたことに対する正直な気持ちを自分の心で反芻したりなんてするだろうか。
 正解はわからないけれど、私はきっと幼児はそんなことはしないんだと思う。直感です。
 日本語には、世間体という言葉がある。世の間における体。親の前での自分の姿、自分の言動。友達の前、先生の前、恋人の前、それぞれの自分の姿。心理学ではペルソナ(仮面)と呼んだりするもの。一人で考えているときには決して想像の付かない自分が、他者の前では現れる。一人になったとき不思議になるくらい、別人の自分がいる。それは自分がそうしているというより、その場の空気によって規定されるような自分がいるって感じがする。
 じゃあ、ペルソナをつけていない素顔の自分というのは存在しないのか。否、きっと、それを私はほんとうの自分と呼んでいる。
 世間体でない自分。それは、いつ生まれるんだろう。生まれたとき、人は既に世間体の姿であり、ペルソナをつけている。母の元へ生まれ落ちるのだから。けれど、今の私は一人の時間にこうして考えることができる。もちろん読者を想定した編集は加えているわけだから、これも世間体というならそれもそうだろう。けれど、みんなほんとうの自分がいるんだろう、と思っている。だから、こうして書いている。

 読んでくれている方は、世間体の自分は好きですか。自分一人でやりたいことを決めていても、他者からの誘いで容易にその決意を投げ捨ててしまうような世間体が私は嫌いです。けれど、少なくとも、世間体が人間の最初の姿なのであれば、素顔の自分とはそこからの産物であり、弱いものなのだと思う。人が本能的に他者を求めている、というのは、最初に人が他者とともにあるのだから当然だ、と思う。





 私は、決意を話した。大学を辞め、親元を離れ、働き、夢を追うということを、友達や先生に話した。もうそれは、立派な世間体の自分だった。出た杭は打ちのめされ、今は気怠い敗北感と暇と退屈の中、考えている。けれど、結局、今日も他者の誘惑の中、素顔の自分を殺すんだろう。

 いつか必ず終わらせる。この世間体の悪癖を。

 どうせ、最後は裏切りだ。今回は、退学を取りやめた。というか、そう簡単にはできなかった。そして絵の勉強は続ける。世間体にほんとうの自分をいつまでも屈服させるつもりもない。現状維持に納得はしたようで、やっぱりしていない。話を聞いてくれた友達に、大学に残る理由はnoteに書くと言ったが、これといった理由はない。世間体の自分になったから、そこに規定されずには生きられなかったとしか、今は言えない。カッコつけた言い方でスミマセン。私も安定人間の型に嵌め直されたというだけです。出た杭が打たれ続けて、元通り綺麗な私です。決めた瞬間、抜け出さなかった時点で、たぶん勝負は決していたんだ。
 素顔の自分を優先し、世間体を隷属させる。いつか。それができるなら、世間体は殺さなくたっていい。今はそう思う。

 

泣いてただろう あの時
ドアの向こう側で
顔見なくても分かってたよ
声が震えてたから
約束だよ 必ずいつの日かまた会おう
離れていく 君に見えるように
大きく手を振ったよ

街は賑わい出したけれど
「世界中に一人だけみたいだなぁ」
と小さくこぼした
錆びついた車輪 悲鳴を上げ
残された僕を運んでゆく
微かなぬくもり

車輪の唄
BUMP OF CHICKEN

 「君」は本当の自分を隠したまま、世間体を打ち捨てた架空の勇敢な私であり、「僕」は世間体でいることをやめられなかった今の私である。

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