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自分がされて嫌なことは人にしちゃだめ、はなんか違う

「自分がされて嫌なことは、人にしてはいけません」て、習った覚えがあるし、とくに疑ったこともなかったように思う。
たしかに間違いではないけれど、この教えには罠がある。

「別に私は、嫌じゃないもん」の免罪符である。

いじめも然り、パワハラも然り、この言い訳により発生するものじゃないだろうか。
きっと皆、「自分がされて嫌なことは人にしちゃだめ」の感覚は持っていて、それに反した行動を起こしたくなったとき、罪悪感から救ってしまうのが、「自分はされても平気」の言い訳だろう。

自分なら、このくらい笑ってネタとして流せるし。
そうやっていじめを自覚しようとしないし、
自分も、こういう理不尽も受け入れてきたし。
そうやってパワハラを正当化しようとする。

自分はされても嫌じゃないから私にやったんでしょう、と言ってやり返せたらどれほどいいか。いっそのことそういう法律を作ってしまえばいいのに、と思ったこともある。
だが、問題はそこではないし、それでは解決しない。

「自分がされて嫌なことは、人にしちゃだめ」
その教えと同様、「人に迷惑をかけちゃいけません」という教えにも聞き覚えがあるだろう。
この2つは同義のように思う。
つまり、「自分が迷惑をかけられたら嫌でしょう、だから人にも迷惑をかけちゃだめよ」ということだと思うのだ。

一方で、インドにはこういう教えがあるそうだ。
「人間は、他人に迷惑をかけなきゃ生きていけない。だから、人から迷惑をかけられても許してあげなさい」
こう教えられると、いろんな人に感謝したいと思うし、周りの人にも寛容になれると思う。

だから、子供たちには「自分がされて嫌なことは、人にしちゃだめ」ではなく、
「自分がされてうれしいことを、人にしてあげなさい」
と教えてあげたい。
そうすれば、そもそも人が嫌がることをしてやろう、なんて発想がそもそも生まれにくくなるのでは、と、ぼんやり思うのです。

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