#映画秘宝の思い出

 ぼくはそれまで横浜ランドマークタワーの現場で電話線の敷設工事のバイトしていたが、「もう肉体労働は嫌だ!もっと文化的な仕事がしてえ!」ということで渋谷の大型書店でアルバイトを始めたのが1993年。アルバイトだけでも60人以上が在籍している大型書店だったが、アルバイトのほとんどが女性だったこともあって、当時大流行していたヘアヌード写真集を含む芸術書のコーナーの社員さんのサポートはぼくが担当することになった(ぼく自身は歴史書のコーナーを担当したかった)。ちなみにその大型書店の地下は軍装品とブルース・リーグッズで有名なアルバンさんで、学校を中退したぼくの実弟がそこの店長をやっていたりした。

 毎日取次から届く大量の書籍をさらさらっと確認し、平積みするもの、書棚に差すもの、返品候補(店頭に出さず、バックヤードで保管しておいて問い合わせされたら出すが、期間が来たら返品する)を考えている日々の中で、ある日『悪趣味洋画劇場』という、いかにもおどろおどろしい表紙のムックを発見。いつものようにさらっと中身見をするつもりが、その内容のあまりの面白さにバックヤードで一気に読破し、半日バックヤードにいたため店員さんに激怒された。当然本はそのまま購入し、取次には追加注文してポップを作って平積みにしたが、店員さんは気に入らなかったらしくて平積みから棚差しに変更、始業直前にまたそれを平積みに戻すという攻防を何日も繰り返していた。

 その翌年に刊行された映画秘宝シリーズは、自分が知っている映画については深く頷き、知らない映画は「そんな映画本当にあるのかよ!?」といった感じで(みんなが使っている言葉で恐縮だが)擦り切れるほど読み込んでいき、まさに「ぼくの心の本」となっていた。特に『ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!』と『底抜け超大作』に関しては、もう何十回、何百回読んだか分からないほどだった。
 そしてインターネットが普及し始めた1996年、ぼくは大好きな成田三樹夫さんのことやカンフー映画のこと、大好きな映画のことを好き勝手に書くホームページ『プロジェクトT』を始めた。

 あまりの文章力の無さから大学の卒論について教授に「高橋の卒論は喋ってくれれば俺が書いてやる」とまで言わせたぼくが、映画秘宝の模倣文章を書き連ねるだけの何ともひどいサイトを立ち上げたのだったが、そこでは高橋ヨシキさん、高野政所さん、amigoさん、Ricochetさん、六弦斎さん、弥勒さん、2430mstさん、キタポンさん(他にも多くの方のサイトと交流させて頂きました)など、当時大流行していた掲示板を通じて多くの方と毎夜テレホーダイの時間になるとバカみたいな会話を通して交流をしていた。

 そんなある日、『生まれてきてすいません』というサイトで『ブルース・ブラザース2000絶対阻止委員会』という、『ブルース・ブラザース』が好きすぎて『ブルース・ブラザース2000』上映を阻止するために6人位で劇場に押し寄せて映画を鑑賞するという映画興行史に残る大事件を引き起こした過激活動をされていたamigoさんが、アミーゴ永野として『Go go!バカ大将』で映画秘宝デビューを飾るという衝撃事件が発生。映画系インターネット界隈は(あまりにも羨ましくて)騒然となった。

 そしてしばらくした頃、プロジェクトTの掲示板にウェイン町山なる人物から書き込みがあったのだ。

「お前なかなか面白そうなやつだな。映画秘宝に参加してみない?」

 今のネットリテラシーを持つぼくであれば、「はいはいワロスワロス、ニセモノ乙」と言ってスルーするところだが、少し前に仲間のamigoさんが映画秘宝で原稿を書いているのだ。もしかしたらホンモノかもしれない。とりあえずウェイン町山さんの書き込みの投稿者名のリンクにメールしてみると、なんと返信が来た!そのメールで洋泉社映画秘宝編集部の田野辺さんの所に行くよう指示されたが、ここまでは半信半疑。でも指定された住所は確かに洋泉社。伺ったけど「誰だお前?」で追い返されるかも……。恐る恐るビルに入り、そこで田野辺さん(当たり前だけどホンモノ!)とお会いし、名刺を頂戴してお話しをうかがうことに。田野辺さんからは、映画秘宝のホームページを作ろうとしてるので、その辺を手伝ってくれない?とのお話しを頂いた(田野辺さんから「ホームページを仕事として作ってもらったらいくらくらい?」と聞かれて、当時の相場的な金額をお伝えしたら呆れられたのをよく覚えている)。とりあえずホームページは置いといて、ひとまず『映画秘宝 ベストテンなんかぶっとばせ!!』が出るからそこに原稿を書いてほしいとのご依頼を受け、天にも昇る気持ちで帰宅。とりあえず自身の1997年のベストを作成して編集部にお送りすると、田野辺さんから「ベスト10に選んだ映画の中で、きうちかずひろ監督の『鉄と鉛』についてのコラムを書いてほしい」とのご依頼を頂いた。

 自分なりによーく考えて、数日かけて原稿を作成。編集部にお送りすると、町山さんから電話がかかってきた(ちょうど日本に帰国されていたタイミングだった)!町山さんからの電話で浮かれるぼくだったが、その電話で「なんだこの原稿は?これを載せられると思ってんの?」(要約)と怒られることに。町山さんの非常に丁寧なアドバイスを受けて、原稿を書き直しては編集部にFAX(その時は本業で会社にいたためメールが送れず、職場のFAXから原稿を送っていた)し、そのたびに何度もダメ出しを食らう。しかし半泣きで7回目の原稿を送った所で、ついに町山さんから「そうだよ、こういうのが読みたかったんだよ!」というお言葉をもらえたのだった(その日は嬉しさと疲労で会社を早退して酒飲んで記憶を無くした)。まあ改めて考えても何でこんなに文章が下手な輩を、あの文章が面白いことで有名な映画秘宝に誘ったのか不思議なもんだが、後日伺ってみたらぼくの文章自体は滅茶苦茶だったが、登場する兵器を連呼するだけの『プライベート・ライアン』評がたまたま町山さん的にツボッたらしく、勢いでお誘い頂いたとのことだった。

 まあそんなこんなで『映画秘宝 ベストテンなんかぶっとばせ!!』が発売。見本誌を献本頂いて早速読み漁る。自分の文章を読んで「ついにおれも映画秘宝に原稿を書いたんだ!」と大感動して浮かれるも、ぼくの次のページには同タイミングで映画秘宝デビューされた高橋ヨシキさんの『カンニバル・ザ・ミュージカル』の超愉快な原稿が。もう落ち込むことしきりで、やはりそのまま飲みに行って記憶を無くしたのだった。

 しかしこのムック発売の翌週、毎週読んでるヤングマガジンのきうちかずひろ先生の著者近況欄に「高橋ターヤンさん、あんたはえらい!」とのコメントが!!「ぼくの原稿をきうち先生が読んで反応してくださっている!小学校から読み続けているヤングマガジンに自分の名前が載っている!」と映画秘宝デビューだけでなく、その派生効果でも泣くほど嬉しくなり、友人(近所に住んでいた東大生の富田さんと、近所のレンタルビデオでアルバイトをしていた故ジャイアント落合さん)を呼びだして、やはり記憶をなくすまで飲んだくれたのでした。(続くかも)