平和研究会(2023.5.27/第百三十九回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 ここから注目していきたいのは、〈わたし〉という意識が育まれるためには、「あなたはそこにいる」と応じてくれた他者がともかくも存在した、という事実の中にある関係性である。それは、「わたしがここにいる」ことの重みを感じ、労苦を引き受けてくれる他者の存在によって、自分の存在が確かなものとなる、そうしたケアと信頼と葛藤からなる関係性である。わたしが、〈わたし〉であるという意識をもつようになるのは、本当にあったのかどうかさえ定かではない、他者から受けたケア、つまり注視、気遣い、労苦、葛藤、そして愛情があったからこそ、なのだ。そのような他者がいたからこそ、〈わたし〉が生まれる。
 わたしたちが、他者と別個の存在として、自らを意識する以前には、こうした過去が存在する。それは、すでにわたしたちの意識の外に放擲されてしまっているかもしれない、脆い記憶である。しかし、この記憶から始めることこそが、主体が構築されるまさにその瞬間に、なにが抹消され、その代わりに、どのような物語が政治的に捏造されてきたのかを考えることにつながるのである。

「ケアの倫理からの出発」

 ケアという実践が注目されてこなかった理由と、ケアの一部がわたしに意識が宿る以前に他者から働きかけられた実践である、ということは関係しているに違いない。しかし、わたしたち一人ひとりに備わるはずの、脆い記憶の断片のみを頼りに、その実践の総体を描くことは難しい。

「ケアの倫理からの出発」

 何よりも、ケアの倫理が避けようとしているのは、「他者への危害」の社会的創出である。すなわち、「多くの人びとが愛する者を実効的にケアするための適切な資源を持たない世界に、わたしたちは生きている」ために、さらに、文化的・歴史的な慣習から、実は多様な形で特別な関係性を結べたかも知れない人びとをそもそも排除しているために——たとえば、子の世話は産みの母に限る、といった思い込みによって——、ケアされないで危険に晒されやすい存在を「社会的に造りだしている」ことが問題なのだ。

「ケアの倫理からの出発」

 他者のニーズに感受する者は、主体的に自らの意志において行動する、責任ある市民とはみなされてこなかった。さらには、自由に自らの生の目的や幸福を構想し、善の輪郭を育む領域と考えられた私的領域は、文字通りの排他的領域であるがゆえに、他者のニーズを感受する者は、他者の存在に左右され自らの意志を貫徹できないと考えられ、私的領域の背景として存在していたとしても、主題として扱われることはなかった。すなわち、相互依存的な関係性は公的領域から排除されたがゆえに私的領域に追いやられてしまった、というフェミニストたちの批判は、生と善の分離として規定された公私二元論を前提とするリベラルな社会の構想では、そもそも議論に取り上げられる余地さえない。
 政治思想史上長きにわたって論じられ、そして、現在の政治世界をなおも貫徹しているこの公私二元論の論理こそが、ケアをめぐってフェミニストたちを悩ませてきた諸問題の核心にあることは、もはや言うまでもないだろう。政治思想史上における公私二元論は、二重の意味で排他的——一般的な原理による統合のために、排他的な公的領域と自由意志に同一化できる自己のみが存在する、文字通り排他的な私的領域——であり、その二重性によって、家族的なるものを注視することを怠ってきた。〔…〕
 カントの自立的主体は、私的領域における現実の諸個人の在り方を一切問わないことによってのみ、成立する主体である。自立的主体は、私的領域の捨象のおかげで存在する。だが、それはあまりに多くの犠牲の上に成立する主体ではないか。実際にそうした捨象のために、多くの人びとは公的領域から排除され、排除の際に危険や暴力に晒されもした。だがそれだけでなく、市民として認められてきた自立した主体でさえ、自立的主体であることによって、残酷な生が強要されてきたのである。なぜなら、その主体は、人間存在にとって不可避な依存、取り替えの効かない自分という意識が育まれる親密な関係、そして自分自身の身体を生きながらえさせてくれた、そして今も自分を支えてくれているであろう他者への配慮を、公的に否認するだけでなく、私的領域においても、自由への脅威として否定することになるからである。他者への依存を否認する排他的な私的領域は、あくまで自立的主体にとっての私的領域として構想されているのだ。

「ケアの倫理からの出発」

 自立的個人をベンジャミンやバトラーたちが批判的に捉えるのは、私的領域における依存の否認に支えられた個人が形成する公的空間が、自らの想像を超えた異なりをもつ他者との不安定な関係性が開示されるような空間ではあり得ず、逆に、ある特定の主体像のみが行為しうる領域、複数の存在間の共通性への同一化を強制する領域へと縮減されていくからである。
 たとえば,共約不可能な価値の多元性を前提としながら、正義に適った社会を構想しようとするリベラリズムにおいて、そこで想定されている個人は、他者のために行為する社会的役割から切り離された自立的主体である。そのさい自立的であることが強調されるのは、個人の生の構想が尊重されるためには、個人は自ら生み出した正当な権利要求を主張し得る主体でなければならないし、そのような主体として扱われるべきだという、要請のためである。だが、社会を構成する主体がそのような者として規定されてしまうことは、そもそもリベラリズムが目指す価値多元的な社会、異なる他者との共生を可能にする社会に向かうはずの構想を裏切ることになる。
 再びベンジャミンの言葉を借りれば、そのような自立した主体の想定は、「自己について、自己の欲望についてつねに知っている自己閉鎖的な主体、異質性を含み多くの部分からなる存在ではなく、統一体である主体という規範を蘇らせてしまうだろう。それはまた、共通性との同一化のみが他者を尊重することの根拠であると認めてしまうことになる。その結果、他者性に対する敬意ではなく、ショーヴィニズムやナショナリズムが育まれがちとなるであろう。」
 ここでわたしたちは、公私二元論が当然のように語ってきた、公的領域=未知なる他者と自己が出会う場、私的領域=差異を受け容れない排他的領域といった考え方に、再検討を加えなければならない。この定説は、自由意志を貫徹し、他者や外界への依存を自由への脅威とするリベラルな主体、自立的で主権的な主体においてこそ当てはまる定式なのだから。

「ケアの倫理からの出発」

 だがもちろん、身体のそうした無防備さゆえに、自身の身体をわたしのモノとして他者に主張できることと、身体に対するわたしの自律を保障されることは、とりわけ女性にとって重要な権利要求であり続けている。しかし、そのことは「所有」や「防衛」を中心とした対他関係だけに留まらない他者との関係性の中に、身体とわたしの関係もまた織り込まれている、という事実を否定することと同じではない。バトラーが言うように、「身体の不変の一局面とは、公的であることである」。身体は、わたしのモノであると同時に、わたしのモノではない。すなわち、もっとも親密な空間だと無批判に考えられがちなわたしたちの身体こそ、もっとも他者に開かれ、排他的ではあり得ない存在なのである。〔…〕
 わたしの身体にぬぐいがたく刻印されている、見ず知らずの他者とのつながり、すなわち社会性は、自立的主体という想定によって諸個人に認められる権利・義務関係とは異なる関係性に、わたしたちが開かれていることを伝えているのではないか。わたしたちの身体の在りようは、自己と他者、私的と公的、自立と依存といった、相対立し、まったく別個の存在であるかのように考えられてきた概念を、異なる視点から再考する契機をわたしたちに与えてくれる。

「ケアの倫理からの出発」

 まず、傷つきやすい身体があり、その身体は環境に左右されやすく、放っておくと死に至るかも知れず、生存のためには誰かに依存しなければならない。そこに、呼びかけられた者たちが、ある関係性のなかに包摂されていくのだ。自律的・自立的であるという意味での責任が取れる自由な主体になることで包摂されるのではない。包摂の最後に残されるのが、依存する者なのではなく、最初に包摂を呼びかけているのが、他者に曝される身体をもつ、依存する者たちなのである。そして、傷つきやすさと依存を根絶することは現実には不可能であり、かつ、理想でもない。「傷つきやすさは、社会生活の特徴の一つであり続けるし、理想的な世界においてさえ、そうであろう。」
 ケアの倫理がわたしたちに突きつけているのは、自立的な主体が存在し、自由意志において政治社会を構成するといった契約論的な社会の構想が、これまで考えられてきたように他者の包摂を可能にしているどころか、じつは、厳格に閉じられた自立的主体だけの世界を構築してきたのではないか、というラディカルな問いである。ケアの倫理は、主権的な主体の暴力的な包摂による社会の構想からいったん離れてみることを可能にしてくれる。

「ケアの倫理からの出発」

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