平和研究会(2023.7.1/第百四十四回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 抵抗とは、暴力との非暴力的な闘いである。「信頼、共感、相互の配慮、そして連帯」といったケア関係を紡いでいく中で育まれ、大切にされる諸価値を暴力は破壊する。したがって、「ケアと暴力が相反することは明らかである。暴力は、ケアがなんとか紡ぎ出そうと骨を折るものを傷つけ、破壊するからだ。他方でケアは、暴力を制限し、封じ、防ぎ、回避するための方法を講じるように、わたしたちに要請している。暴力の特徴とは、より大きな暴力への連鎖なのだ。」
 それでは具体的に、ケアの倫理から導き出させる平和構築に向かう実践とは、どのようなものなのだろうか。わたしたちは、女性たちを中心としたさまざまな試みの中に、すでにその具体例をいくつもみてきているのではないだろうか。暴力を被った者は、モノのように扱われたがゆえに尊厳を傷つけられ、屈辱を味わう。被害者たちは尊厳をいかに回復するのか、わたしたちはいかに被害者たちの訴えに応えていくのか、そうした問いに応えていくことそのものが平和に向かう実践であることを示しているはずだ。その実践は、暴力に暴力で応えることは自壊的な衝動に他ならず、暴力との闘いではあり得ないという、もっとも平和を希求してきた被害者たちの経験に裏付けられてもいるだろう。

「安全保障体制を越えて」

 二十世紀が終わろうとしていた2000年12月に東京で開催された「女性国際戦犯法廷」は、国家暴力に対して「正義」の審判を求め、市民たちが国境を超えて連帯した民間法廷であった。国家の自己防衛・自己利益のために犠牲になった事実さえ伝えられずにいた女性たちが、半世紀以上の沈黙を破り、国家暴力は一人ひとりの豊かな人生を奪い、自分自身の身体でさえ喜びをもって享受できないような傷を与えるということを、ときに言葉にならない声で語った。旧日本軍〈慰安婦〉にされた女性たちの存在は、国家は国民の生命・身体・財産を守るために存在するという、近代社会契約論以降のわたしたちの「思い込み」を打ち砕くに十分な証であった。
 しかしながら、現在のわたしたちが目にしているのは、二十世紀の犠牲からわたしたちが学べたはずの非暴力の思想や、国家暴力に基づく安全保障に対する根本的な疑念についてさらに深く思考を巡らせることなく、より多くの武力を持って恐怖の下に「平和」を築こうとする勢力の台頭である。そうした勢力は、他国の脅威を想起させることで、「現実的な」安全確保について語っているように見えながら、実は国家暴力こそが国民を含めた多くの人びとから命さえ奪ってきたという否定できない事実に目を閉ざしている点で、平和を構築するにはあまりにも非現実的で無謀である。

「安全保障体制を越えて」

1960年代・70年代における極左・極右によるテロリズムと暴力は、政権奪取、国民解放などの目的を掲げていた点において、政治的な意味を持っていた。しかしながら、グローバル化に伴い、暴力の中心と目的は、政治から離れていく傾向にある。一方では、経済活動に都合のよい政権を維持するために暴力が発動される場合のように、暴力は「インフラポリティカル」化・脱政治化・無意味化されていく。他方では、ブッシュ政権や彼を支える政治学者たちまでもユダヤ・キリスト教的な原理を持ち出したように、暴力は政治を超えた、つまり交渉不可能な絶対的な価値観の違いにおいて、すなわち妥協を許さない場において発動される。つまり、そこでの暴力は、「メタポリティカル」化・超政治化されていく。すなわち、この新しい二つの傾向のなかで、暴力にかつて込められていた政治的な意味は空洞化されていくのである。
 ここで注目したいのは、二つの異なるベクトルに向かいつつあるように思える新たな暴力は、2003年に開戦されたイラク戦争で露呈したように、「「絶対的悪」との妥協なき「聖域」という仮借なき政治上位的論理が、エリートたちの私的利権である政治下位的論理を押し通す」ための手段になっていることである。すなわち、二つの現象を惹起しているのは、実は私的利益の追求をどこまでも守ることが国家の利益だと考える、ネオ・リベラリズム的な経済の論理、つまり自己利益の前に人間や世界が破壊することもよしとするアンモラルなエコノミーの論理なのだ。
 わたしたちの社会的領域のネオ・リベラル化、すなわち、それまで市場の原理になじまないとされた領域への市場の介入(典型例の一つが戦争請負会社である)は新たな形の暴力を誘発する。そうして誘発された無意味な暴力・脱政治化された暴力や政治的妥協を許さない政治上位的暴力の存在がよりいっそうわたしたちの未来を不安なものにする。そして、その不安を取り除くために安全保障を求める。だが、不安を取り除いて保障される安全のためには、現在の脅威とされる暴力を越える強大な暴力装置を完備した力が必要となる。しかし、その力もまた、利益追求こそを究極目的とするネオ・リベラルな原理によって養われている。ここに、ネオ・リベラルな原理の循環は閉じられ、あらゆる社会的領域の市場化は完成され、暴力は安全保障を糧に、安全保障は暴力を糧に、どんどんと両者の存在感は高まっていくようである。
〔…〕本書では対抗暴力の可能性を考えることはしない。むしろ考えてみたいのは次のことである。現在では、国家による暴力装置の独占という近代国民国家の基礎をなす原則が崩れ、新たな暴力が噴出し始めているように見える。しかしながら現状は、まったく新たな状況の中にわたしたちが立たされていることを示唆しているのではない。むしろ、これまで当然視されてきた政治の前提や国家の存在意義——すなわち安全保障——を新たな形で再生させようとする諸力が台頭してきていると考えるべきではないか。換言すると、国家から政治力を奪還し、多様な政治的主体を創造していこうという試みに対抗するために、あるいは「安全保障は実は幻想に過ぎず、だとすると国家は不要なのかもしれない」というポスト国民国家的な勢力をつぷすために、エコノミーの暴力を利用した安全保障中心の国家がいま、再建されようとしているのではないだろうか。
 そのように考えると、現在の新たな形での暴力の発動もまた、長く西洋政治理論を支えてきた国家論の一変種へと回収されていくであろう。なぜならば、近代国民国家の成立を支えた社会契約論者たちは言うまでもなく、西洋の政治思想の伝統とは、プラトンの『国家』からカール・シュミットの『政治的なものの概念』にいたるまで、暴力の存在を前提とした安全保障の必要性を説くことで、国家の存在を正当化してきた歴史だからである。〔…〕
 政治思想・政治理論は、国家による暴力の独占を自然状態=戦争状態と考えることで正当化し続けてきた。そして、国家によって独占される暴力をいかに効率的に使用するかを考えることが政治的倫理であると語ってきた。政治理論は何世紀もかけて執拗に、わたしたちの不安・恐怖を取り除く se-curus と考えられている「国家による安全保障がなくなるならば、どうなるか分かっているか」というメッセージをわたしたちに送り続けているのである。

「安全保障体制を越えて」

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