平和研究会(2023.6.10/第百四十一回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

  近代主権国家が成立して以後、女性たちは、男性と同じように主体として認められることを求めてきた。そして、その歴史的過程で得た権利は、手放してはならない果実である。しかし、暴力の独占装置である国家に包摂される主体は、そもそも他者と外的環境に取り囲まれ巻き込まれ、そこに依存しなければ生きていけない事実について、忘れることを強要される。主権的主体中心の公私二元論によって、正義の射程からだけでなく、個人が構想する善の射程からも、主体の来歴が隠されてしまう。主権的主体が前提となっているために、他者への依存の価値は貶められ、そしてそうした主体からなる社会を構想する際には、傷つきやすさと他者への依存の不可避性といった、人間の条件が忘却される。
 しかしながら、ブラウンが鋭く指摘するように、自立的な主体による排除や忘却は、現状を維持するためにこそ行われる。家内領域が実は多様な異なりを抱えた諸個人の偶然の集いであること、そのことのもつ社会的な可能性を封じ込め、自立的主体中心の公私二元論で支えられた現在の政治を保守するためにこそ、そうした忘却が連綿と続いてきたといっても過言ではない。その証拠に、母親業の社会的価値を認めようとしない近代的な政治理論は、同時に依存関係をめぐる営みについては、法制度上、しっかりと国家管理の下で主権的主体が支配する私的領域にとどめておくべきだと論じ続けてきた。したがって、わたしたちは、家族の私化は家族が国家化されていることに他ならないことに気づくべきなのだ。だからこそ、家族が担ってきた役割を現行制度上の家族以外へと広げようと構想することは、現在の国民国家中心の社会構造そのものを根底から変化させる大きな力をもっているのである。
 依存をめぐる営みを国家に人質に取られてきた「家族」から解放し、脱私化することは、わたしたちが社会を傷つきやすい存在を中心に構想する道をひらいてくれる。ひととひとのあいだに形成される呼応関係=責任関係とは、自立した平等な個人間で結ばれる契約関係では決してなく、むしろ他者の行動に左右され、傷つきやすい立場におかれたひとの存在ゆえに築かれる。まず傷つきやすい身体があり、そうした身体に呼びかけられた者たちが、依存を中心とした関係性の中に包摂されていくのである。自立的主体に「なる」ことによる包摂とはまったく異なり、包摂を呼びかける主は通常の意味での呼応関係を結べない人びとなのだ。そして、その呼びかけは、主体として国民国家に包摂されているのではない人びとに対する責任論へとつながっていくことも示唆している。すなわち、家族を主体中心の私化から解放することは、責任関係を国家から解放する道をも示しているのだ。
 他者からのケアを必要とするヴァルネラブルな状態は、身体的理由から生じると同時に、各人が生きている具体的な社会的文脈からも生じる「人間の条件」である。アーレントが世界の代表と呼んだ新しいひとと、そのひとのケアをする他者との関係性を中心に論じてきたが、ヴァルネラブルな存在が世界の代表である、と論じるアーレントの議論は非常に重要である。

「小括」

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