平和研究会(2023.5.20/第百三十八回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 リベラル・フェミニズムは——あたかもニーチェの指摘に応えるかのように——、女性にも自由意志が備わり、理性に従って自分自身で判断を下すことのできる成人である、と主張する。「私の身体は私のものである」、したがって、「私が自由意志の下に、私の身体に対しては自分自身で命令を下す」という主張もここから生まれてくる。だが、わたしたちがすでにメグの例でみたように、そうした主張を繰り返すことでは、リベラリズムに孕まれた問題を解消できないことは、言うまでもないであろう。〔…〕ある社会において、その社会が作り出した不平等に対しては、それは社会的不平等であり、そのことを放置するのは不正義であるのだから、リベラルな社会は政治的介入によってその不平等を是正するだろう。しかし、自然——どこまでが自然で、どこまでが社会的産物であるかの議論の余地はあるにせよ——における違いからもたらされた困難は、彼女の不運なのだ。そして、リベラリストは言う、それでもなお、彼女は、平等な自由を享受しているはずである、と。
 すでに、一人ひとりを平等で自由な存在として尊重する社会が存在している、とリベラリストが主張するとき、社会における不自由は、彼女個人の(自由な)選択・選好・能力(努力)の結果か、あるいは制度とはなんら関係のない、自然的所与の問題へと還元されてしまう。社会は自由であるはずなのに、彼女が不自由「である」のは、彼女個人の問題なのだ。そして、これこそが、リベラルな公私二元論がフェミニズムに突き付けるやっかいな問題である。
 わたしたちは、リベラルな主体になることによって、忘却や排除を強いる圧力を不自由だとして告発することが不可能となる。その抽象生ゆえに、リベラルな主体になることは誰にでも開かれている。しかし、身体性から発するニーズに応答するための活動など、多くの存在や活動を排除した上で成立するような主体がまとっている魅力は、まさにフェミニストにとっての「罠」なのである。そして、この主体にはりめぐらされている「罠」こそ、リベラルな公私二元論がやっかいな問題をフェミニストたちに突き付ける原因なのだ。
 命令する主体を支える自由意志をその根底から覆すような身体性をもつ女性、そしてそうした身体性をもつからこそ、自由意志を持てない二級市民として貶められてきた女性たちは、では自由を求めるために、自らも自由意志に貫かれた主体であることを望む以外に道はないのであろうか。

「リベラリズムとフェミニズム」

 フェミニズムにとっては、リベラリズムが不問に付してきた、身体をともなった一人ひとりのわたしたちの異なりが主要な関心である。しかも、この身体の異なりは、リベラリズムが想定するような自由意志が所有する客体としてのモノでも自然・所与でもないし、また、他者の介入から守られなければならない自他の境界線としてのみあるわけでもない。むしろ、フェミニズムのこれまでの研究が明らかにしてきたことは、身体こそが社会化されていることだった。つまり、わたしの身体は禁止や期待などの様々な社会的なコードによってあたかも自然であるかのように構成されており、だからこそ、身体の外的・内的環境は、リベラリズムのいうような厳格で単純な公私二元論を越えて、諸個人の平等な自由に向けての社会変革の際に、最も考慮されるべき条件なのだ。
 リベラリズムに内在していたはずの批判力は、身体の外的・内的環境にあまりに無頓着である——敵対的でさえある——ために、社会を構想する段階になると、容易に現状維持に加担する力へと反転してしまう。その理由は、具体的な身体性とそこから生じるニーズに応えている家族的なるものを脱政治化することで、家族的なるものを現状のまま維持しつつ、その批判力を担保しようとしてきたからである。そこには、家族的なるものがもつ豊かな関係性の中に、既存の政治体制に対する批判力をみるための契機が存在しない。
 女性がある選択をなした。リベラリストはその選択を自由な選択で「ある」という。だがフェミニストは、次のように言うであろう。彼女のその選択は自由な選択であるべきだ、と。わたしたち一人ひとりは自由である、と思い込む勇気などわたしたちには必要もない。そんなことは不可能だ。むしろ、自由であるために誰一人として代価を求められるべきではないのだ、とフェミニズムはわたしたちを勇気づけてくれる。そして、それでもなお、わたしたちは自由であるべきだ、と。

「リベラリズムとフェミニズム」

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