近代の政治思想が疑いえない与件としてきた「主権国家=主権的主体」は、主権性を脅かす存在を暴力的に封殺しようとする。他方で、主権性によって脅かされてきた「なにものか」を救い出そうとしてきたフェミニズムは、その暴力に対抗する理論を構築してきたと言いうるのではないか。
この「なにものか」とは、母子のメタファーを用いながら考察してきた依存関係である。依存間系の中で見い出されるケアの倫理は、脆弱で非決定の存在のニーズに耳を澄まし、存在のあらわれを可能とするニーズに応え、かつ存在の他性を尊重することを要請している。
暴力とはその定義上、主体の意志貫徹のために暴力の対象を客体化することである。他者の存在に呼びかけられてしまうことから始まるケアの倫理は、まず何よりも、ケアを担う者にもケアを受ける者にも、他者を客体化してしまうことすなわち暴力的な主体であることを禁じる倫理であるはずだ。〔…〕母子のメタファーを覆っていた幻想の脱神話化を経たわたしたちは、いまやトロントたちの言うケア実践が、自他を一体化して捉える利害対立のない調和的なユートピアにおける実践であるのではなく、その逆に、時に他者からの否応ない呼びかけによって自己が翻弄され、時に圧倒的に弱い他者を圧殺してしまいそうな誘惑に駆られつつ、だからこそ強い倫理が課された実践であることを知っている。ケアにはつねに軋轢が存在しているのだ。より正確に言うならば、自他との間には必ず軋轢が存在し、その軋轢を根絶することは不可能であり、また、根絶を試みることは自他を滅ぼすことに他ならないのだから、自他の間にはつねにケアの倫理が要請される。