平和研究会(2023.6.24/第百四十三回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 近代の政治思想が疑いえない与件としてきた「主権国家=主権的主体」は、主権性を脅かす存在を暴力的に封殺しようとする。他方で、主権性によって脅かされてきた「なにものか」を救い出そうとしてきたフェミニズムは、その暴力に対抗する理論を構築してきたと言いうるのではないか。
 この「なにものか」とは、母子のメタファーを用いながら考察してきた依存関係である。依存間系の中で見い出されるケアの倫理は、脆弱で非決定の存在のニーズに耳を澄まし、存在のあらわれを可能とするニーズに応え、かつ存在の他性を尊重することを要請している。
 暴力とはその定義上、主体の意志貫徹のために暴力の対象を客体化することである。他者の存在に呼びかけられてしまうことから始まるケアの倫理は、まず何よりも、ケアを担う者にもケアを受ける者にも、他者を客体化してしまうことすなわち暴力的な主体であることを禁じる倫理であるはずだ。〔…〕母子のメタファーを覆っていた幻想の脱神話化を経たわたしたちは、いまやトロントたちの言うケア実践が、自他を一体化して捉える利害対立のない調和的なユートピアにおける実践であるのではなく、その逆に、時に他者からの否応ない呼びかけによって自己が翻弄され、時に圧倒的に弱い他者を圧殺してしまいそうな誘惑に駆られつつ、だからこそ強い倫理が課された実践であることを知っている。ケアにはつねに軋轢が存在しているのだ。より正確に言うならば、自他との間には必ず軋轢が存在し、その軋轢を根絶することは不可能であり、また、根絶を試みることは自他を滅ぼすことに他ならないのだから、自他の間にはつねにケアの倫理が要請される。

「フェミニズムが構想する平和」

〔…〕わたしたちは、自立的主体批判にその根をおくフェミニストたちが構想する平和を、はっきりと「非 - 暴力」あるいは「反 - 暴力」として定義することができる。
 自立的主体の抽象的な思考に対して、母的思考という概念を提唱したルディクもまた、したがって母的思考は、平和構築をめざす政治的闘争に参与しているのだと論じる。彼女によれば、何よりも「平和構築者とは、暴力から目を背けるのではなく、むしろ暴力を探し出し、誰がいかに傷ついたかを詳細に尋ねようとする」者である。
 すでに確認したように、軍事的思考は身体を武器の延長と捉え、兵士を具体的な個人としてではなく量的な戦闘要員と考えることで、身体が被る苦痛から目を背けることができる。同様に、主にリベラリズムが前提とする自立的主体の抽象性は、戦時でなくとも現代の主権国家に免れ難く刻印されている。意志によってはコントロールが不可能な身体性(=他者性)への残酷さを隠蔽してもいる。
 身体性を捨象するために、「軍事的思考は、組織的で計画的な死を正当化」することができる。その最たるものは、アウグスティヌスの時代から連綿と続く、正戦論である。
 正戦論は、現代の国際政治や国際法の世界を支配し、目的と手段の因果論にきつく拘束された、軍事上の一撃が引き起こす事態やその結果と余波を最後までコントロールできるとする、傲慢で抽象的な思考である。
 それに対して、「誕生に始まり、性を約束してきた」母親業を担う女性たちから生まれてきた思考は、歴史的に置かれてきた無力な者のたちばから、そして、無力な者たちが暴力の対象となってきた歴史から紡がれてきた。したがって、その思考は具体的な現状に根づいている。ここでの具体的な現状とは、暴力に満ち、無力な者たちが無価値であるかのように扱われ、いかなる報いもなく傷つけられても、多くの者が無関心でいられるような現状である。したがって、そうした現状を変革するために平和を志向し、思考する母親たちは、しばしば無責任と同一視される「平和主義」ではなく、「戦闘的」なのだと、ルディクはあえて名づけるのだ。
 しかし、無力な者の立場から、巨大な軍事産業と国家のもたれ合いだけでなく、日常の暴力に溢れる現実に、どのような「戦闘」がありうるというのだろうか。ルディクは、銃後を支えてきた女性たちを美化する言説を最新の注意を払って批判しながら、なお「嘆きの母は、平和を求める際に頼りになる媒介者」であるという。嘆きの母というイメージは、母親業に携わるものが大切にしてきた価値に対する脅威を正確に見分ける思考を鍛えてくれる。そのイメージは、被害者の傷に対してじっと耐えるのではなく、むしろ「嘆き続ける」ことのもつ批判力をわたしたちに気づかせてくれるからである。嘆き続けること、それは現に傷ついている身体だけでなく、もはや存在しない身体をも悼むことである。そして、どんなに怒りにかられても、「暴力と闘う勇気をもつ」よう、みずからも苦悩し、傷ついた者たちのために祈り、時にみずからが暴力に溢れる交渉の場へと参加していくのである。
 こうして母的思考から生み出されて来る平和構想のプロジェクトとは、「貧困、専制、人種差別といった構造的暴力から自由になる」ことであり、構造的暴力からの自由を求める闘争を統制する四つの理念は、「武力放棄」「抵抗」「和解」そして「平和維持」であると定義される。こうして、平和を求める闘争が理念化されてもなお忘れてはならないことは、この理念を支えているのは、無力な者たちが傷つけられている現状をいかに暴力に抗しつつ変革するのか、という実践的な母的思考なのだ。無力な者に加害を与えた者たちは、その被害の程度どころか被害の事実さえ忘れ去ろうとし、暴力を受けた者たちを無価値化しようとする現実こそ、母的思考を「戦闘的な」平和実践に駆り立てる。〔…〕
 痛みに代表される私秘的なものと、怒りという表出可能な者の媒介者としての「嘆きの母」のイメージは、それが体現する非暴力性によって現在進行形の危害を終わらせようとする。そして、危害を公に暴くことによって加害の責任者に責任をとらせ、みずからの痛み、親戚の痛み、そしてすべての消え去った人たちの痛みを公的に語り出すことによって、断ち切られた人びとの間の絆の結び直しと共同体の再建を広く世界に訴えるのだ。
 もちろん、自立的主体と軍事作戦との特徴とを結びつけたフェミニストは、ルディクだけではない。ジュディス・バトラーは、第一次湾岸戦争終結後、当時のイラクに対する合衆国の軍事行動を批判した。〔…〕その後バトラーは、『生のあやうさ』において、倫理的責任と集合的責任について論じる際、身体のもつ公的な次元について言及することになる。身体は「公共圏における社会的現象のひとつとしわたし構築された」ものなのである。したがって、私の身体は私の自由にならない。むしろ、私と他者の架け橋である限り、他者とのつながりの場であると同時に、つねに暴力にさらされる危険性から免れないのである。その危険性は根絶できないがゆえに、身体性をめぐる、やはり厳しい倫理が要求されるようになるのだ。そして、ここでのバトラーの主題 subject のひとつは、危害を被ったあとに、わたしたちにはどのような応答可能性 responsibility があるのか、である。バトラーもまた、すでにフェミニズム理論の特徴として指摘したように、主体 subject がいかに構築されているのかに注目するようにわたしたちを促している。〔…〕
 こうしてわたしたちは、理解を超える他者とともに軋轢を抱えつつ、みずからの生を他者と偶然にも共有・分有する営みの中から生まれて来た実践知を、フェミニストによる平和構想の核心に位置づけることができる。この実践知は、既存の母性賛美や前近代への回帰を促すのとは逆に、現行政府の再配分機能の一翼を担う制度としての「家族」を超えた、ひととひとの解放的なつながりをも示唆するものになるはずである。

「フェミニズムが構想する平和」

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