フェミニズムにおける平和問題は、女性という「主体の間」に分裂をもたらす中で論じられてきた。ここでいう主体の「間」とは、複数の女性たちの間でばかりでなく、主体内の分裂中でも論じられてきたことを意味している。すなわち、バイオロジーが社会的構築か、という問いに女性たちがさらされることによって、まさに女性であることを生きる者たちは、男性中心主義社会の中で、「他者」として構築されてきた自らへの批判的考察と、しかしながら、その立場を超えようとすることの限界、女性性という特殊性を引き受けることの両義性など、さまざまな矛盾を〈わたし〉の中に抱え込む。女性は、みずからの中に他者からの呼びかけを含んだいくつもの声によって引き裂かれた〈わたし〉を生きていることを、一つの政治的課題に出会うたびごとに経験するのだ。
主体内のこの分裂は、リベラリズムが自由の前提とする、自らに命令する堅い意志を中心とするのとは異なる、個の在り方を示している。しかも、そこで示される葛藤は、リベラリズムの主権的主体の強い規定のために、実際に廃止の命令の下で忘却されてきた葛藤に他ならない。そしてこの忘却は、他者と自己を分ける強固な砦である私的領域から、自分の意思に反するあるいは意志を台無しにしてしまうようなものを、異物として排除する極めて能動的な忘却でもあった。
フェミニズム理論の特徴の一つは、ある主題 subject に対する思考が、つねに思考する主体 subject であるみずからへの問いと、展開する/せざるをえないことにある。さまざまな分裂を抱えた主体の経験、その経験への注視、そしてそこから語られる平和論にこそ、リベラリズムの議論からは見えてこない、そして政治思想を根本から問い直すような、フェミニズムの平和論の可能性の一つが存在しているのではないか。それは他者(性)を暴力的に抑圧する主権国家と自立的主体との結託とは異なる、自己と他者との非暴力的な関係性の構築への道筋を照らしてくれるはずである。