平和研究会(2023.6.17/第百四十二回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 フェミニズムにおける平和問題は、女性という「主体の間」に分裂をもたらす中で論じられてきた。ここでいう主体の「間」とは、複数の女性たちの間でばかりでなく、主体内の分裂中でも論じられてきたことを意味している。すなわち、バイオロジーが社会的構築か、という問いに女性たちがさらされることによって、まさに女性であることを生きる者たちは、男性中心主義社会の中で、「他者」として構築されてきた自らへの批判的考察と、しかしながら、その立場を超えようとすることの限界、女性性という特殊性を引き受けることの両義性など、さまざまな矛盾を〈わたし〉の中に抱え込む。女性は、みずからの中に他者からの呼びかけを含んだいくつもの声によって引き裂かれた〈わたし〉を生きていることを、一つの政治的課題に出会うたびごとに経験するのだ。
 主体内のこの分裂は、リベラリズムが自由の前提とする、自らに命令する堅い意志を中心とするのとは異なる、個の在り方を示している。しかも、そこで示される葛藤は、リベラリズムの主権的主体の強い規定のために、実際に廃止の命令の下で忘却されてきた葛藤に他ならない。そしてこの忘却は、他者と自己を分ける強固な砦である私的領域から、自分の意思に反するあるいは意志を台無しにしてしまうようなものを、異物として排除する極めて能動的な忘却でもあった。
 フェミニズム理論の特徴の一つは、ある主題 subject に対する思考が、つねに思考する主体 subject であるみずからへの問いと、展開する/せざるをえないことにある。さまざまな分裂を抱えた主体の経験、その経験への注視、そしてそこから語られる平和論にこそ、リベラリズムの議論からは見えてこない、そして政治思想を根本から問い直すような、フェミニズムの平和論の可能性の一つが存在しているのではないか。それは他者(性)を暴力的に抑圧する主権国家と自立的主体との結託とは異なる、自己と他者との非暴力的な関係性の構築への道筋を照らしてくれるはずである。

「フェミニズムが構想する平和」

 たしかに、母子関係を平和論へと結びつけることには、母子関係に対するロマンティックな幻想がつきまとう。だが、リッチがみずからの経験を率直に記したように、母子は一体であるどころか、つねに葛藤を孕んでおり、またケア実践からみえてくるのは、子が自分とは異なる存在であることである。子の個別性を時に痛みを伴いながら尊重することなく、よいケアはあり得ない。「軋轢はケアに内在している」のだ。ケア実践においては、時にはみずからの存在を脅かすような他者に対してなお、非暴力的な応対を試みなければならない。そして、相手が圧倒的に無力であろうとも、支配するのでもなく、パターナリスティックに価値を押しつけるのでもなく、かといって相手の言いなりにもならず、注意と関心と労力を注ぎつつ、相手の存在があらわれてくるのを歓待しようとすること、そうしたことを厳命するケアの倫理の中に、わたしたちは平和論の鍵を見い出せるのではないだらうか。〔…〕母親業という実践を通して、他者に積極的に関わりながらも境界線を踏み越えないような知の在り方、より正確に言うならば、自分とは別個の独立した、刻刻と変化を遂げる他者の身体に積極的に関わる中で、他者との境界の関わり方が学ばれていく。そして、その実践から生まれる知の在り方を特徴づけるのが、環境にさらされ、刻刻と変化し、意志を越えたところに存在する身体の依存性/偶然性への注視から生まれた謙虚さであり、自らの能力の限界と他者の別個性に対する感受性である。その知の在り方は、主権国家の論理と対照的である。なぜならば、主権国家ははっきりした境界線の峻別、自他の領域の絶対的な不可侵性の論理によって、自己の内部における、他なるものや理解し得ないものを排除し、領土を固守するからである。

「フェミニズムが構想する平和」

 母的思考の特徴をよりよく示すために、ルディクが対照させるのが軍事的な思考である。軍事的思考は、あらゆるモノをコントロールできるという過信、因果関係を見い出そうとする際の単線的で(ときに恣意的な)文脈設定とそのスパンの短さ、量的な効率至上主義、身体的・精神的苦痛への無関心が特徴である。しかし問題なのは、そうした軍事的思考は、例外状況において否応なくとられるものではなく、むしろ西洋哲学の伝統の内にはっきりとみられる、抽象的な思考の優越と他者への依存に対する恐怖が先鋭化したものである、という点である。〔…〕ルディクによれば、他者への依存に対する恐怖と思考の抽象性は、いかに自己を自他の身体性から解放し身体の支配者とするか、という伝統的哲学の探究に連綿と受け継がれた身体性への侮蔑が異なる形で現れたものに他ならない。
 したがって、平和を希求しようとするフェミニズム理論は、軍事的思考を支えてきた伝統的哲学の思考様式、ひいてはそうした思考を理想とする思考主体、すなわち自立的な「主権的主体」に対する批判へと焦点を合わせざるを得ないのである。
 〔…〕主権国家のアナロジーとして主体が構築されているならば、この政治的に構築された主体の一元性の下で圧殺され、封殺されてきたもの、すなわち身体を伴い、だからこそ contingent な存在を救い出すことによって、人間の条件によりふさわしい社会構想に着手できるはずである。それは、主権国家の手からわたしたち一人ひとりの具体的な生を取り戻す、〈わたし〉の脱主権化の試みでもある。
 平和な社会を構想するためには、主権国家=主権的主体に張り巡らされた強固な鉄の檻から、わたしたち自身がまず解放されなければならない。なぜならば、「暴力的な主権国家に相応しく構想された主体に基づき主権国家を構想してきた主体」といった主権国家=主権的主体の檻のなかでは、現在のリベラリズムの主張のように個の自立や意志が強調されればされるほど、その個人は主権国家の似せ絵をなぞるばかりだからである。

「フェミニズムが構想する平和」

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