平和研究会(2023.6.3/第百四十回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 ベンジャミンが言うように、現代の社会は慈しみと間主観的な人間関係を、女と子どもの私的・家内的な領域へと追放した。さらに、主権的主体が自らの善を自由に育む個人的領域——これがいわゆるリベラリズムが理想化する私的領域である——と公的領域とに社会が分離している。そして、リベラルな公私二元論は、ブラウンが論じたように、家族的なるものをその議論の射程から覆い隠してしまう。その結果、「人間としての資格と承認を守ってくれる私的生活は、孤立化され、社会的な効果を剥奪されている。このように、社会全体の合理化は、社会生活の中の真に「社会的」であるものを否定する。」
 だが、わたしたちは、近代における主流の政治思想が愛情の名の下に自然視してきた家族という領域において、自らの経験の範囲では捉えきれない他者とすでに出会っているのではないか。つまり、ベンジャミンが主張するように、家族には、「真に社会的なもの」の契機が存在するのではないか。そこでわたしたちは、自分の意志や記憶を越えた出会いであるにもかかわらず、自分の身体に刻印されているような他者と出会っている。
 その他者は、自立した主体どうしで理解し合う場合のように、私とよく似た他者ではない。その他者は、自分の意識の下で可能な想起を超えた思考の中で、ようやく再会しうるような他者である。近代における政治思想が既存の善の構想を守るだけでなく、むしろ善のさまざまな構想を未来に向けて豊かに育むためにも、社会の構成原理を見い出そうと格闘してきたのであれば、わたしたちがすでに出会ってきた他者とともにある経験を、創造的に想起する試みがなされるべきである。

「ケア・家族の脱私化と社会的可能性」

 まず、バトラーの次の言葉から始めたい。「もし私が自律を求めて闘っているとするなら、わたしはなにか他のもののためにも闘うことが必要なのではないだろうか。共同体のなかで密接に存在する私、他者によって刻印された私、他者を侵害してもいる私、それでいながら自分でコントロールもできず、予測できない形で他者と関与せざるを得ない私の捉え方のためにも闘うということが。わたしたちにとって自律を求めて多くのやり方で闘うことがどのようにして可能か、そして同時に、定義上おたがいに依存しあい、身体的におたがいを傷つけあう可能性のある存在によって占められた世界に生きることによって、身に負わされた要求をも考慮することがどうしたら可能だろうか? こうした条件を別個にもっているということにおいてのみ、わたしたちがおたがいに似ているような共同体、これこそが共同体を想像するもうひとつの方法ではないだろうか?」〔…〕
 わたしたちは、自らの記憶を超えたところで、すでにつねに他者によって、自らの身体・心を育まれている。もちろん、そのさい身体は、他者へと差し出されているためにつねに暴力の危険性に晒されている。自分の身体が自分のものだと気づくのは、ある一定の期間を他者とともに生きた後である。つまり、〈わたし〉は他者の只中に生まれてきたのであり、〈わたし〉の起点には他者がつねにすでに存在する。「自分の近くにいてほしいと選択したわけではない他者に私の身体が関係している」という事実、「他者が近くにいるという根本的で自分の「意志」によらない事実」は、身体の「社会的条件」である。

「ケア・家族の脱私化と社会的可能性」

 「家」という理念が歴史的に抱えてきた抑圧や特権性に対するフェミニストたちの批判は確かに正しい。男性を主人とした「家」の理想化にわたしたちは、批判的な目を向けることをやめてはならない。しかしヤングはなお、女性たちが「家」において主に担ってきた営みを注視することによって、「ホームという理念はまた、批判的で解放的な可能性を備えている」ことを明らかにしようとする。〔…〕ボーヴォワールやアーレントといった女性思想家たちは、家を維持する仕事は「ルーティンワーク」であるとして、そこに人間的な価値を認めてこなかった。より正確にいうならば、奴隷的な労働と捉えていた。しかしながら、ヤングは、むしろそこに、支配=従属関係といった人間関係や、建設=破壊といった人間活動とは異なる、多様な者たちの間で育まれる生の意味と個々人の尊厳を守るための人間活動を見い出すのである。〔…〕
 家族の物語は、政治思想史で公的領域に相応しいとされてきた、熟議や討論とは異なっている。しかし、その物語は、バトラーの言う「差異なしに想定することができないような条件を共有している」わたしたちが、新しい共同体を模索するための鍵を示しているはずだ。
 家族は「言葉を拒むもの」では、決してない。むしろ、わたしたちの経験を超えた、時にことば自体を超えるような、多様な他者との語り合いを可能にする場である。〔…〕
 フィールドと落合の物語から、家族が「一体不可分の場所」であるどころか、異なる時空を生きる他者たちが壁を抱え込み、だからこそ、なんとか「ことば」を交わそうとする場であることが分かる。「ことば」を交わそうとするのは、しかし、通じないことを受け止めることでもある。じっと待つこと、分かりあえない状態から、予期し得ない形で他者の尊厳に気づかされる時が到来することを、そうした受け止めからわたしたちは学んでいく。分かり合えることを前提として、自分でも理解可能な他者の尊厳を相互に認め合うのではない。そうではなく、受け止め、待つこと、待ち望むことから、非対称ではあるものの、尊厳やかけがえのない生の価値という意味においては対等な関係性が育まれる様を、わたしたちはそこに見い出すのである。尊厳を受け止める態度は、このように幾度も生の意味を語りなおしていく時間の中で、ようやく育まれるのである。
 〈わたし〉のために生きているのではない他者が、それでもなお、〈わたし〉を愛してくれた。その事実を想起しつつ、他者の存在を受け止める家族のありようは、多様な生の価値と一人ひとりに備わっているべき尊厳の受け止め方をわたしたちがホームにおいて学びうる可能性と、さらには実際に学んでいることをまさに示している。

「ケア・家族の脱私化と社会的可能性」

 しかしながら、家族の豊かさを強調することは、一部の者たちの既存の特権を正当化することに陥ってしまうという批判があるかもしれない。そのような批判に応えていくためには、家や家族の価値創造的な営みを否定するらはなく、むしろ、そのような豊かな語らいと自由な空間を育み、他者の尊厳を受け止めるためには、なにが家族に必要なのかを考えていかなければならないだろう。
 ヤングもまた、豊かな生の意味を与えてくれるホームに住まうことが、現代社会において一部の者の特権となってしまってしまっていることを認めている。しかし、「こうした特権という事実に対する正しい応えは、ホームの価値を否定することではなく、むしろそれらの価値をすべての人たちのために主張することである。」そうした訴えへと家族や家をめぐる議論が転換するとき、「「ホーム」は尊厳と抵抗の場として、政治的な意味をもちうる」と言えよう。〔…〕
 後期資本制社会のなかで、一個の生の豊かさ、他者を愛することの意味、慈しみ・育むことの有り難さをわたしたちは経験しているにもかかわらず、そのことをいまだ分節化しえていない。〔…〕家族の可能性を見い出そうとすることは、栗原らが唱えるように、他者の存在が〈わたし〉にあらわれることを待ち、喜ぶことに価値を見い出す社会への変革を促すことになるに違いない。

「ケア・家族の脱私化と社会的可能性」

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