ベンジャミンが言うように、現代の社会は慈しみと間主観的な人間関係を、女と子どもの私的・家内的な領域へと追放した。さらに、主権的主体が自らの善を自由に育む個人的領域——これがいわゆるリベラリズムが理想化する私的領域である——と公的領域とに社会が分離している。そして、リベラルな公私二元論は、ブラウンが論じたように、家族的なるものをその議論の射程から覆い隠してしまう。その結果、「人間としての資格と承認を守ってくれる私的生活は、孤立化され、社会的な効果を剥奪されている。このように、社会全体の合理化は、社会生活の中の真に「社会的」であるものを否定する。」
だが、わたしたちは、近代における主流の政治思想が愛情の名の下に自然視してきた家族という領域において、自らの経験の範囲では捉えきれない他者とすでに出会っているのではないか。つまり、ベンジャミンが主張するように、家族には、「真に社会的なもの」の契機が存在するのではないか。そこでわたしたちは、自分の意志や記憶を越えた出会いであるにもかかわらず、自分の身体に刻印されているような他者と出会っている。
その他者は、自立した主体どうしで理解し合う場合のように、私とよく似た他者ではない。その他者は、自分の意識の下で可能な想起を超えた思考の中で、ようやく再会しうるような他者である。近代における政治思想が既存の善の構想を守るだけでなく、むしろ善のさまざまな構想を未来に向けて豊かに育むためにも、社会の構成原理を見い出そうと格闘してきたのであれば、わたしたちがすでに出会ってきた他者とともにある経験を、創造的に想起する試みがなされるべきである。