平和研究会(2023.5.6/第百三十六回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

具体的な他者とのあいだに依存関係を結ぶものたちの居場所は、リベラルな社会が想定する公私二元論のどこにも存在しない。あたかも、ひとはすべて無力の状態で生まれ、そこには彼女・かれを見守り必要に応えてくれる誰かがいた事実をわたしたちが忘れ去っているかのように。リベラルな公私二元論を私の側から詳細にみてみると、具体的な他者とのあいだの呼応関係が存在する余地はないのだ。
 というのも、リベラルな社会における公私二元論の根幹には、私的領域においてもすでに自由に自らにとっての善を構想する、自由な個人が存在するからである。リベラルな社会が依拠する公私二元論においては、私的領域こそが、もっとも自由な領域である。他者や外的・内的状況に依存する者たちは、公的領域から排除されたからといって、けっして単純に私的領域に追いやられたのではない。そこには、非常に巧妙な忘却の作用が働いている。

「自由論と忘却の政治」

リベラルな社会における公私二元論は、私的領域においては自由を自由意志に限定し、公的領域においては依存から自由であることを市民に求める。そのために個人は、いずれの領域においても他者とのあいだに文脈依存的な関係性を育むことができない。本章で明らかにされるのは、一人ひとりの善の構想を自由に育むことを尊重する、善の多元性を前提とする社会における自由論が、個人の自由意志をあまりに強調してしまうことがもたらす逆説的な帰結である。つまり、そうした自由論は、多様な善を構想することにつながるはずの他者とのつながりの中で育まれるような自由の在り方を予め根こそぎにしている。
 責任論をめぐって前章で確認された依存の排除は、本章第二節で詳細にする主意主義的な自由論解釈によって示されるように、〈わたし〉に対する意志の命令こそを「自由」と捉える消極的自由論に起因している。「自由」を〈わたし〉の自由意志へと切り詰めることは、ひととひとのあいだにある〈わたし〉の存在から眼を逸らせるだけでなく、〈わたし〉内部の要望・欲求・傾向性のあいだに生じる葛藤から、純粋な意志=自由意志を切り離し、意志を特権化してしまうのである。

「自由論と忘却の政治」

 ハーシュマンは、バーリンにしたがって、選択が自由を理解する際の鍵概念であることは認めており、また他者からの介入から自由であること、といった商業的自由の概念の意義は見失ってはならないという。しかし、女性たちが迫られる困難な選択を具体的に考えれば、バーリンのように選択能力のなかに自由意志を見いだし、そこに「自己自由としての価値が与え」られると考えることはできない。むしろ、個々の選択がなされる社会的文脈——とくに家父長的な社会制度や価値観——と、他者や外界との相互行為の中で培われる諸個人の内面にこそ、目を向けなければならない。「その利用は、単にわたしたちは社会化されているから、ということではない。むしろ、社会化がそこにおいて作用することができるような主体が、産出されているからである。」すなわち、「選択する主体の社会的構築」こそが、フェミニストにとっての自由をめぐる問題なのである。

「自由論と忘却の政治」

 消極的な自由が空虚なのは、そこには自分以外の障害がないため、だけではないだろう。おそらくは、〈わたし〉を構成しているはずのさまざまな社会関係やそうした関係性から生じてくる多様な生の構想を、いったんは忘れて自らに命令を下すことで、そうした諸々の事象から自らに巻き起こる葛藤を忘れなければならないことから生じる、〈わたし〉の中の空虚さではないか。〔…〕
 ここには、第一章で責任をめぐって確認したディレンマと同じディレンマが存在する。すなわち、リベラルな課題に応えようとして、異質な・多様な他者を受け入れるための社会を構想しようとすればするほど、その社会で生きるひとは、抽象的な自由意志や誰もが認めることのできる規範に主体として従うことが求められる、すなわち同一性の論理が強化される、というディレンマである。ここまでみてきた公私二元論においては、公私の領域ともに、この同じディレンマに陥っているのである。

「自由論と忘却の政治」

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