平和研究会(2023.7.8/第百四十五回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 現在のネオ・リベラリズムの潮流もまた、長い時間をかけて政治思想史が作り上げてきた安全保障=暴力=国家のトリアーデの外にあるわけではない。むしろ、そうしたトリアーデを新たに再強化させるものなのだ。そうであるならば、暴力に抵抗するために、わたしたちは主流の政治学が前提としてきたすべてを疑う必要がある。〔…〕
 政治的領域の創設のはじまりに暴力を見い出そうとする政治思想の歴史は、人間の原初にある依存関係、さらには人間存在の脆弱さを忘却してきた歴史である。そうした歴史に抗して、本書では、放っておけばその生が維持できない、傷つきやすい、他者に依存しなければ生きていけない存在を社会のはじまりに位置づけてきた。そこから育まれる人間像とは、フェミニズム理論の中で女性たちの経験に耳を傾けることによって詳らかにされたわたしたちの「倫理」——他者との関係性に心を砕くこと——観のひとつを伝えている。すなわち個人の脆さ、わたしたちの関係性の壊れやすさ、わたしたちを取り巻く世界や自然の儚さをケアすることを巡る、実践や価値についてである。

「安全保障体制を越えて」

 ケアの倫理とは、自分自身と他者のあいだで互いのニーズに積極的に応答しあう際に求められるものである。〔…〕「ケアの倫理と呼ばれてきたことが示唆しているのは、その道徳性の中心とは、脆弱性の事実、つまり人がそれを通じて、またその中で生きている関係性が壊れやすいという事実に対する応答である。」
 正義の倫理とケアの倫理が異なるのは、後者だけが修繕をめぐるわたしたちの活動を支えている、という意味ではない。そうではなく、両者の重要な違いとは、わたしたちの修繕がどこに向かうかである、とスペルマンは論じる。すなわち、正義の倫理は社会原則が破壊されるとそれを回復しなければならないと考える。それに対して、ケアの倫理は、わたしたちが他者とともに紡いでいる関係性が破壊されると、それを回復しなければならないと考えるのだ。
 したがって、主流の正義論による応報的な正義は、社会構成のなかでも重要な部分を占める法が破られた場合、違法行為を犯したものを罰することで社会のなかの法の権威と権力とを回復する。しかし、そこでは、同じく社会構成の中でも重要なはずの、その行為によって傷ついたもの、破壊されたさまざまな関係性に対する注意は喚起されない。被害者がどれほどの傷を負ったかが斟酌されるのは、罪の重さを図るための手段であって、被害者の傷を癒す目的のためではないのだ。さらに事態を悪くしているとスペルマンが考えるのは、こうした国家の法的な裁きの在り方は、被害者の回復や加害者の社会復帰という繕いの作業から目を逸らせ、むしろ、罰則の在り方のみわたしたちの注意を向けさせることである。〔…〕それに対して、スペルマンが目を向けるケアの倫理に基づく修復的正義は、いったい被害とはなんであり、被害者が必要とする回復の在り方はなんであるかを、まず被害者自身に語り出す力を与えることによって、被害に対する適切な応答を試みる。そこでは、彼女・かれらの語りを聴く者、彼女・かれらが語り出すことを助ける者、彼女・彼らがこれまで築いてきた関係性の中にいる人びと、そして必要な時には加害者をも含んだ社会的関係性の再構築がなされるのである。それは、被害者の過去へと遡り、どの時点の過去の糸ともう一度彼女・彼らを結びつけるのかを探り、暴力によって客体化されてしまった以前の彼女・かれらを取り戻す試みなのだ。〔…〕
 ケアの倫理は、社会のはじまりに、暴力ではなく、ケアを必要とするものの存在があることを明らかにする。だがケアの倫理は、暴力の存在を否定するのではなく、むしろ否定し得ない暴力の可能性が偏在していることも明らかにする。そしてだからこそ、傷つきやすい者たちに対する危害を避けるために、人びとがそれぞれのニーズに呼応することで、社会関係が広がっていくのだ。修復的正義という考えは、そうした関係性の中に生きる人びとが、実際に危害にあってしまった時にもまた、人びとが集うことで修復がともに行われる必要性を伝えている。
 現在の法的正義の主流である応報的正義は、権利を持った個別の人を前提に、その権利を保障している法体系の権威を保守することによって、社会秩序の回復を試みる。そして、スペルマンが指摘しているように、応報的正義には加害者を社会から孤立させ、加害者が築いてきた既存の関係性をむしろ断ち切る力が働いている。他方で、ケアの倫理に基づく修復的正義は、傷ついた社会関係の網の目とそこに関係する人びとに配慮しながら、実際に被害者が受けた傷を癒し、加害者をも社会の関係性の中へ復帰させることを試みることで、過去と未来を紡ごうとしているのである。
 「繕う」という人間の行為の偏在性に目を向けようとするスペルマンからわたしたちが学ぶのはわたしたちの世界は傷つきやすく、それは避けえないことで、いつどこで傷つくかについては予測不可能だということである。だからこそ、文脈に配慮した、そして個別具体的な傷の深さを注視するケアの倫理を、わたしたちは手放してはならない。

「安全保障体制を越えて」

 わたしたちは非常に傷つきやすい——自身を含めた——世界に生きざるを得ず、それゆえ他者からのケアに必ず頼らざるを得ない。自分がケアする立場に置かれることももちろんある。にもかかわらず、そうした相互依存の関係を政治的な関心の外に留め置こうとすると、つまり政治の領域では他者に依存しないで生きる自立した個人を要請し続けることは、どのような帰結を生むのか。
 〔…〕すべての個人にとって共通の経験であるはずの、みずからの存在を他者に委ねた経験は否認され、主流の政治思想は、ヘーゲルの「承認をめぐる闘争」が象徴的であるように、他者への依存に対する恐れに取り憑かれている。そのことが、男性中心主義的な世界における、〈母〉の役割の否認につながっている。すなわち、みずからがかつてその存在のすべてを委ねていた〈母〉は、単に父が所有しているモノであり、したがって人間以下の存在である、と。ここにおいて〈母〉は、もはや彼女もまた事故として認められている、という意味における他者ではない。「母は自己と対等の人格ではない」と〈母〉の人格を否定することによって、自立した個人は、自己が実は他者への依存によって存在していることを否認するのである。
 政治思想における個人像は、「自身が現実に行なっている依存と社会的従属を否認する、捨象の行為によって作り出されて」いるために、「繕い」の行為が前提とする、人間世界の脆さや自らの傷つきやすさを「残酷な事実」として認めることができない。「その結果、この人物の自由とは、他者の統制や侵入に対する防衛だけで構成されることになる。」ここに他者とは自らに敵対する存在であるがゆえに、事前にその危険を取り除いておこうという安全保障の考え方が生まれる。
 わたしたち自身や世界に傷つきやすさという「残酷な事実」を直視し、だからこそケアの倫理を重視し、繕いという行為の政治的な重要性を語ること。それは、安全保障=暴力=国家のトリアーデの連鎖を解くことにつながるはずである。なぜなら、このトリアーデを形成しているものこそが、「残酷な事実」を認められず、「残酷な事実」ゆえにあらゆる個人が必要とする他者への依存を否認し、そのことが転じて他者支配、他者の統制、過剰な自己防衛へとつながる、恐怖の連鎖だからである。わたしたちは、「国家が提供する安全保障、国家の持つ圧倒的な暴力装置がなくなればどうなるか分かっているのか」という脅しに耳を貸さず、まったく異なる政治の在り方、それも多くの女性たちが日々経験してきたケアや繕いという営みから発する政治のあり方を模索していかなければならない。

「安全保障体制を越えて」

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