平和研究会(2023.7.22/第百四十七回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

〔…〕ホームとは、時間と空間の中で平和であることを意味している。そしてホームは、他者に迎え入れられ、他者を迎え入れることの学びの場、他者を決して我有することなく、非暴力的に応対する実践の場であった。近代の契約論を中心とした政治思想が論じてきたのとは異なり、身体をもつゆえに不可避的に依存せざるを得ない人の依存関係にこそ社会の萌芽がある。グディンが論じるように、「傷つきやすい者を護ること」、すなわち、傷つきやすい存在をケアすることで、実際の危害を避ける責任を担いあえる仕組みを築くことが、社会の存在意義である。
 それでもなお、傷つきやすい存在のニーズが誰からも応答されなかったために、その生が危険にさらされたり、直接的に暴力を受けたりした最悪の場合には、過去に遡り、危害を特定し、断ち切られた過去とを結ぶ糸を紡ぎ直しながら、傷を癒し回復をめざすための新しい「現在」を創造しうるような関係性を人と人のあいだに築かなければならないことが、ケアの倫理と修復的正義を関連づけながら論じられた。修復的正義は、ケアの倫理が指し示す反暴力こそを平和と位置づけ、暴力と闘ってきた女性たちの実践から導き出された理念、つまり「武力放棄」「抵抗」「和解」「平和維持」を統合する正義観なのである。
 しかし、バトラーが論じるように、ケアの行き届いた平和な状態は局在しているに過ぎず、ケアの倫理から出発する政治は、ケアを待つ不安な存在にいかによりよく応答するかを考えるためにこそ思索を深めなければならない。わたしたちの行為に左右されるが、わたしたちの行為に対して意志表明権をもたない最もヴァルネラブルな存在に、そうした政治は最もよく応えなければならないからだ。〔…〕ケアの倫理を核心にすえる政治は、具体的な人のニーズをめぐる、人びとの呼応関係を中心に、国民国家中心の社会編成の在り方の再編を強く促すはずである。それは人としての不可避の条件に最大限応え得る政治という意味で、文字通り、人権を尊重する政治へと一歩近づくことでもある。

「ケアから人権へ」

〔…〕人権が直面する最初のアポリアとは、それが「権利なき者にとっての」最低限の権利である、という点から生まれてくる(アーレント)。権利なき者にとって、それなしでは生存できないような権利は、すでに人権が保障された者からすれば、最低限の権利にすぎない。だが、最低限と言えるのは、すでに権利を与えられている人から見てなのだ。しかし、その最低限の権利は、人権を訴えようとする者にとっては、人権という普遍的な価値に訴えざるを得ないほどの、現時点では実現が不可能な権利なのである。したがって、人権が究極の権利とされるのは、はだかのヒト、剥き出しの生へと人が還元される極限状態において、唯一訴えることのできる権利、という意味においてである。権利なき者が訴えようとする人権は、こうした意味において、まさに究極であるがゆえに、現在の法・権利システム(=国民国家システム)においては実現され得ない。
 〔…〕人権保障システムの主たる政治的ユニットとして「国家」が採用される限り、さらに国家間の人権保障の実現度に格差がある限り、人はすべてその尊厳を尊重されるべきであるといった、本来人権の概念が持っているはずの規範的価値は、幻想にすぎない。国際社会で歴史上生じてきたこと、現に生じていることを注視してみるならば、「無実の人々が被った前代未聞の危難を示すことによって、不可侵の人権などというものは単なるお喋りにすぎず、民主主義諸国の抗議は偽善でしかないことを、実際に証明することにも成功」しているといえる。

「ケアから人権へ」

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