アーレントにとって「自由」とは、他者とともにあることによって経験される。自由とは、誰がその状態にある、という意味での属性でも、所有されるようなモノでもなく、他者とのあいだに交わされる行為と言論を通じてのみ出来する、他者と共有・分有される存在様式である。したがって、アーレントは幾度となく、他者とともに経験される自由を行為と言論によって創造される空間として説明しようとするのだ。
すなわち、消極的自由を信条とするリベラリストとも、積極的自由論者とも異なり、アーレントは自由を、行為と言論を介してわたしたちの間に出来する空間、他者とともにあることによって予期せず生じる出来事として自由を捉えるのである。一言でいえば、ニーチェともバーリンとも異なり、孤立のなかに自由は出来し得ないのである。〔…〕アーレントにとって言論が自由の空間を出来させるのは、言論は他の誰でもないこの〈わたし〉を他者の前にもたらし、〈わたし〉がこの世界にあたかも初めてもたらされた新しい人であるかのように、人間世界に〈わたし〉というイニシアティヴを挿入するからである。
しかしながら、周知のように、アーレントにとってひとが誰であるかを暴露することは、彼女が「何か what 」を伝えることと同じではない。ここで注意しなければならないのは、「誰か」と「何か」を伝えることは違うのだと論じるアーレント自身が、他者に自分が「誰か」を伝えることにまつわるパラドクス、その困難さを強調しているということである。「その人が、誰 whoであるかを述べようとする途端、わたしたちは、語彙そのものによって、かれが何 what であるか述べる方向に迷い込んでしまうのである。」還元すれば、わたしたちは自分自身の唯一性を同定化しようとすると必ず、他の誰かと共有しているであろう何らかの属性について、つまり自分が「何であるか」について語ることになってしまう。すなわち、ことばによって自分自身にだけ固有の唯一性を暴露することは、不可能にさえ思われるのだ。自分が誰であるかを他者に伝えようとすれば、「その暴露は、ある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。」