平和研究会(2023.5.13/第百三十七回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 アーレントにとって「自由」とは、他者とともにあることによって経験される。自由とは、誰がその状態にある、という意味での属性でも、所有されるようなモノでもなく、他者とのあいだに交わされる行為と言論を通じてのみ出来する、他者と共有・分有される存在様式である。したがって、アーレントは幾度となく、他者とともに経験される自由を行為と言論によって創造される空間として説明しようとするのだ。
 すなわち、消極的自由を信条とするリベラリストとも、積極的自由論者とも異なり、アーレントは自由を、行為と言論を介してわたしたちの間に出来する空間、他者とともにあることによって予期せず生じる出来事として自由を捉えるのである。一言でいえば、ニーチェともバーリンとも異なり、孤立のなかに自由は出来し得ないのである。〔…〕アーレントにとって言論が自由の空間を出来させるのは、言論は他の誰でもないこの〈わたし〉を他者の前にもたらし、〈わたし〉がこの世界にあたかも初めてもたらされた新しい人であるかのように、人間世界に〈わたし〉というイニシアティヴを挿入するからである。
 しかしながら、周知のように、アーレントにとってひとが誰であるかを暴露することは、彼女が「何か what 」を伝えることと同じではない。ここで注意しなければならないのは、「誰か」と「何か」を伝えることは違うのだと論じるアーレント自身が、他者に自分が「誰か」を伝えることにまつわるパラドクス、その困難さを強調しているということである。「その人が、誰 whoであるかを述べようとする途端、わたしたちは、語彙そのものによって、かれが何 what であるか述べる方向に迷い込んでしまうのである。」還元すれば、わたしたちは自分自身の唯一性を同定化しようとすると必ず、他の誰かと共有しているであろう何らかの属性について、つまり自分が「何であるか」について語ることになってしまう。すなわち、ことばによって自分自身にだけ固有の唯一性を暴露することは、不可能にさえ思われるのだ。自分が誰であるかを他者に伝えようとすれば、「その暴露は、ある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。」

「自由論と忘却の政治」

 事実、わたしたちが語る一つのことばでさえ、他者のことばであり模倣にすぎない。いかに無数のことばを駆使しようとも、私の唯一性には届かない。この否定しがたい事実によって、わたしたちは、わたしたちのことばが伝える唯一性は、ことばそれ自体によって表現されるのではなくて、わたしたちの間に存在するなにものか、すなわち関係性の網目、さらに換言すれば、わたしたちの間ですでに確立してしまっている文脈から生じてくることが分かる。〔…〕
 だからこそ、わたしたちが他者とコミュニケーション行為をする際、はっきりした意図の下に、他者に対して自分が誰であるかを伝えることは不可能であるが、他者にとっては自分が「誰か」はあまりにも明らかなのだ。このことは一見するとパラドキシカルに思われるが、極めて人間的な事象であるとアーレントは考える。そして、ことばがことばを発した者の意図を越えて受け取られるという事態を尊重しなければならない、と主張する。なぜならば、わたしたちの間にある関係性の網の目、まさにひとのあいだに存在していること inter - est こそが、ひとの唯一性と異なりを伝える力を生み出し、特定の文脈を互いに維持していることによってのみ、その場におけることばの独自の意味が発生するからである。〔…〕
 コミュニケーション行為は、わたしたちがそれぞれに異なりを保ちながら、同時に多数存在しているという事実に基づく、複数性という人間の条件を現実化する行為である。なぜならば、自分が発した言葉が他者に受け取られる際に、そこに生じる送り手と受け手とのズレにより、互いが異なる存在であることをわたしたちは認識するからである。この複数性とは、他者とともにありながら、個人としては取り替えのきかない唯一の存在である、という否定しようのない人間の条件である。〔…〕
 アーレントにとって自由であることとは、ひとの意志や動機を越えた、したがって、新しく、予測不可能ななにものかがもたらされる空間を享受できることである。すなわち、自由が実現されるためには、人びとのあいだで交わされる相互行為を待たねばならず、相互行為のないところでは、自由は潜在的である。「自由が世界性をもったリアリティとなる領域」とは、複数の諸個人に聞かれることばを介して、人びとに語られ、記憶され、物語られる出来事によって保たれている空間である。自由は、つねに予測を裏切るような、そして人間のコントロールを越えた一種奇蹟的な出来事によってリアルなものとなる。さらにいうならば、だからこそ、自由な空間においてはそうした出来事が生じやすくなるのである。〔…〕パラドクスとは、自らの行為や言論を自らの意志の下にコントロールしようとするならば、その「行為は、自由を利用するまさにその瞬間に、自由を失うようにみえる」というパラドクスであった。すなわち、自らの意志の貫徹を自由だと考える者、ここではあえてリベラリストと呼ぶが、彼女・かれらにとっては、アーレントの言う自由なひとは、最も不自由なひとに見えるのだ。アーレントが考えるには、だからこそリベラリズムは——バーリンが考えるところとは全く逆に——、ひととともにあることを可能にし、新しい出来事をともに経験する、という意味での自由を敵視し、自らの自由意志を貫徹させようとする、暴力的で抑圧的な主権者を夢想するようになる。〔…〕無条件の自由を求めて、西洋哲学の伝統は、複数の諸個人の間に保たれる〈あいだ〉ではなく、孤立した単独のひとの内的空間に自由の領域を見い出したのだ。〔…〕
 外界からの干渉から「安全に securely」守られている自由を求めることによって、いまやわたしたちは、もっぱら〈わたしたち〉だけの内部で、内的な空間のうちでのみ自由を経験できると考えられるようになった。外部にある他者は、〈わたしたち〉の自由にとって脅威である。哲学的に理解された自由が、政治的領域においても理想化されることがもたらした最終的な帰結、それが自由と主権の同一視である。自由は「他者から自立し、しかも最終的には他者を圧倒する自由意志の理想、すなわち主権となった。」そして、この同一視は、近代の政治哲学がもたらした「最も有害で最も危険な帰結」である。

「自由論と忘却の政治」

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