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平和研究会(2023.8.12/第百五十回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

 近代の自由意志論に基づく自立的主体は、主権国家の前提では決してなく、むしろ結果であった。そして、あたかも社会構想の基盤として、この主体から論じ始める限り、その主体の存在により忘却されてきた依存をめぐる関係性、具体的個人の不可避の傷つきやすさ、ケアの倫理でいう責任、直線的な因果関係を越えるからこそ共有されるべき責任について思索をめぐらせ、責任関係をよりよく果たすためにこそ設計されるべき社会諸制度を構想するための通路は、予め閉じられている。すなわち、依存をめぐる関係性の中に見い出されたケアの倫理には、国民国家や世代を超えた、繕いの共同体や証言の共同体へと向けた実践の可能性、他者の re - member の可能性が宿っているにもかかわらず、主権的主体の前提によってそうした可能性は不可視化されてしまっている。
 主権的主体を疑うことは、国民国家が隠蔽してきた差延の痕跡に応える営みへの呼びかけに応じることによって、これまで長く政治理論において否定され、忘却されようとしてきた、かつて「否定された希望の鍵」を探索する思考の旅に一歩踏み出すことである。

新しい共同性に向けて

〔…〕フェミニズム理論が明らかにしたことは、個人の来歴としても、社会の在り方としても、他者からの呼びかけが原初にある、ということであった。他者が私に先立つゆえに、私は他者に育まれなければならないし、他者は私の呼びかけを否応なく聞いてしまうがゆえに、私と関係性の網の目を紡ごうとする。この他者の先在性は、そのおかげで、私の意のままにならない私の身体が育まれる一方で、だからこそ他方で、私の身体が時に他者の意のままに扱われ、暴力の対象として客体化されてしまうという両義性を免れ得ない。
 わたしたちの生にとって、原初の脆弱性(ヴァルネラビリティ)からくる他者への依存はしかし、根絶することはできないし、むしろ、するべきではない。なぜならば、人間存在の脆弱性こそが、他者との交わりを生み、複雑な関係性の網の目を紡ぎ出す源泉であり、他者との間で紡がれた関係性の網の目の中で初めて、わたしたちは、自身のユニークさ、かけがえのなさに気づき、そこに個としての尊厳が宿るのだ。
 カント的に理解される尊厳は、人間の生が自由であり得るために手放せない理念である。各人に備わる尊厳は、人間性の開花を約束する潜在性としての価値であり、何人であれ侵害してはならない理念として理解されてきた。しかし、ケアの倫理を学ぶことでわたしたちは、すべてのひとに備わるとされる自由の核心としての尊厳もまた、「非決定の他者を、権力関係がない形で自分が受け入れ」てきた人びとの営みによって、支えられなければならないことを理解するのである。栗原は、他者を「私の」と我有化しない関係性の在り処を「新しい親密圏」と呼んでいるが、ルディクらの著作によって明らかにされたのは、「私の」中からあらわれてきた新しい存在を、場所を共有しながらも、私とは異なる存在、異なる身体を生きる他者としていかに尊重するかをめぐり、多くの女性たちが格闘し、思考し、時に暴力の誘惑に抗いながら、個別の関係性を築いてきたかであった。〔…〕政治思想史は〔…〕身体が「公共圏における社会的な現象のひとつとして構築されてきた」という事実を、私的領域からも公的領域からも忘却してきたのである。〔…〕フェミニストたちは、リベラルな社会の想定の内で、否定され抹消され、そして忘却にさらされてきた社会性を救いあげようとしているのである。〔…〕どこか別の場所に目的地があるのではなく、いまここで、フェミニストたちは、いつ出会えるともしれない沈黙の声と出会うために、探究の旅を続けるのだ。

新しい共同性に向けて

〔…〕彼女たちの声をもはや聞くことができない沈黙のあれのにわたしたちは取り残されているのだ。しかし他方で、〈慰安婦〉にされてしまった女性たちは、暴力を受けた者として、決して受動的な犠牲者であり続けたのではない。現在も「わかちあいの家」を意味する「ナヌムの家」に住まう女性たちが、1992年から毎週水曜日、互いに体を労わりながら、ソウルの日本大使館にデモに出かけるように、暴力の被害にあったからこそ、さらなる暴力の連鎖が起こることがないように、過去に向き合える現在へと変革することを求めて、みずから声をあげているのだ。彼女たちこそが、暴力はさらなる暴力しか引き起こさないことを身をもって経験し、暴力のあとで暴力と闘うことはいかなる方法に従うべきかを、わたしたちに伝えてくれている。
 暴力のあとで、対抗暴力に訴えるのではなく(それはさらなる暴力を惹起することに他ならない)、むしろ、ルディクが「嘆きの母」という、フェミニズムにとってはリスキーな用語をあえて使用したように、嘆き悲しむこと、それが主権国家の暴力を支える形へと回収されないような形で、女性たちが公共的な場でその悲しみを示すことによって、暴力と闘う女性たちが世界中にいる。わたしたちが生きる世界は、なお暴力が支配し、暴力装置以外でその暴力に立ち向かう術を知らない政治の権力によって、まさに荒野と化していることを女性たちの嘆きは身体的に表現する。わたしたちは、そうした女性たちの系譜を荒野の中に見い出し、彼女たちが新しい社会を紡いでいることを知っているのだ。〔…〕「利己主義/利他主義の二項対立が前提している単独者としての諸個人、そのような諸個人が存在する世界とは異なる世界があることを感知するセンス」を女性たちは学び、その世界を、暴力が支配する荒れ野の中で紡ぎ出そうとしているのだ。〔…〕わたしたちは、自己を超えた何者かに付き添われながら自分自身を生きているのだから、その呼びかけを聴いた者は、自身の中に避け難く含まれている社会規範や他者とともに、責任を果たすように求められている。そして、だからこそ、一見すると個人的に見える応答の仕方であったとしても、そこに社会変革への道がひらかれているのだ。

新しい共同性に向けて

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