近代の自由意志論に基づく自立的主体は、主権国家の前提では決してなく、むしろ結果であった。そして、あたかも社会構想の基盤として、この主体から論じ始める限り、その主体の存在により忘却されてきた依存をめぐる関係性、具体的個人の不可避の傷つきやすさ、ケアの倫理でいう責任、直線的な因果関係を越えるからこそ共有されるべき責任について思索をめぐらせ、責任関係をよりよく果たすためにこそ設計されるべき社会諸制度を構想するための通路は、予め閉じられている。すなわち、依存をめぐる関係性の中に見い出されたケアの倫理には、国民国家や世代を超えた、繕いの共同体や証言の共同体へと向けた実践の可能性、他者の re - member の可能性が宿っているにもかかわらず、主権的主体の前提によってそうした可能性は不可視化されてしまっている。
主権的主体を疑うことは、国民国家が隠蔽してきた差延の痕跡に応える営みへの呼びかけに応じることによって、これまで長く政治理論において否定され、忘却されようとしてきた、かつて「否定された希望の鍵」を探索する思考の旅に一歩踏み出すことである。