平和研究会(2020.10.17/第五回)

鵜飼信成『憲法』(岩波書店・1956) p.93-94 ⑶学問の自由

「大学の自由は、制度的には、宗教的権威として確立した地位を占めていた教会に対立するものとしての大学における、思想の自由の保障を意味するのである。そこでは、なにより研究の自由が要求せられ、研究成果がどのような社会的勢力への批判を伴うものであろうと、顧慮するところなく自由に発表することが許されなければならない。結果の自由な発表と、これに基づく自由な議論とをぬきにしては、学問の発展はないからである。この意味で、研究成果の発表は、憲法二一条の保障している表現の自由よりもさらに以前において、研究の自由そのものの本質的な内容として認められなければならないものである。研究成果の発表は、学問に特殊な方式として教授の形をとる。したがって学問の自由はまた教授の自由でもなければならない。学問の自由は、固有の意味の大学の自由よりも広い観念であるから、大学以外の研究教育機関においても、研究および教授の自由は、当然に保障されなければならない[…]」

cf.キリスト教学校の苦難の歴史 https://www.k-doumei.or.jp/publications/backnumber/2006_09/2006-09-06/

「徳川封建体制が崩壊し、近代日本の統一を緊急命題として登場した明治政府は、天皇制をもってその支配原理とした。それが天皇制絶対主義の論理的完成としての帝国憲法制定であった。憲法制定会議議長伊藤博文は「本邦に於ては貴族及人民の参政権は天皇陛下の付与せらるるものなり、決して貴族人民の固有の権に非ざるなり」と、明確に主権在民を否定し「今憲法の制定せらるるに於ては、まず我国の機軸は何なりやを確定せざるべからず……我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」と宣言した。伊藤はここで、政治の機軸としての宗教を持たない日本に於いては、天皇を以って之に代替する他はない、と説いているが、その論理の延長線上にある問題は、機軸としての天皇権力の、やがては神化にまで至るべき、国家論理の国民教育レベルにおける確立であった。そして、そうすることによってこそ「神聖にして侵すべからざる」天皇の仁慈と恩恵がうたわれることとなり、またこれに対する国民の感恩と随順が、最高の道徳として強調されることとなったのである。」

「このような文脈の中で教育勅語は如何に位置づけられたか。教育勅語は当然に、神格天皇を「機軸」とする体系的縦編成社会の倫理規範となったのであるが、それが「国家倫理」であったことによって、倫理は著しく国家目的に適合的な人間形成をその価値基準とすることになり、天皇制絶対主義を国民の側から支えるという機能を果たすこととなった。このように教育勅語が天皇制国家の論理を基礎づける倫理規範であった以上、国民教育の課題が、国民を人格として尊重し、その市民的成長を育成するのではなく、天皇を頂点とする国家形成の目的に適合的な人間像の養成にあったことも自明であった。」

「以上で明らかなように、天皇制をいうものは実は明治維新以後「創り出された」イデオロギーだったのである。そしてこの過程で、切り捨てられるべき人権論、人格主義、自由主義などと共に、キリスト教は有害な価値体系として否定されなければならなかった。これ以後、キリスト教は反倫理思想として迫害の対象となっていったのである。」

「ここでは「永久に基督教主義」を宣言した青山学院の教育目標が「教育勅語の聖旨を奉戴」することとなり、「皇国の負荷に任すへき人物」を陶冶する手段として「基督教精神を採」ることで、僅かに建学理念のアイデンティティーが表明されるに至ったのであった。状況は他のキリスト教学校においても同様であった。関東学院では一九四〇年に「本学院の教育は教育勅語の聖旨を奉戴し之を実現する為に基督教により人物を養成し」と、「基督教主義に基く教育」が教育勅語にとって替えられ、明治学院でも「基督教主義の教育を施す」ために建てられた学校が「教育に関する勅語の趣旨を奉戴」することとなった。」

「このような痛ましい歴史は、一九三〇年代から四一年の日米開戦に至る、日本の軍国化と思想の暗い谷間への過程と共にすすめられていった。満州事変、上海事変から始まった軍部の暴走は、一九三七年、日中戦争に突入、国家総動員法に続いて大政翼賛会が発足した一九四〇年には、「紀元二六〇〇年」を謳って皇国化が決定的となる。文部省には思想局・教学局が置かれ「青少年に賜りたる勅語」による思想の強制的皇国化は、一九四〇年の新体制運動へと方向付けられ、一九四一年の日米開戦に至る。戦局の進展と共に「皇国民の練成」に教育目標が収斂され、緑美しい各学校のキャンパスにも、軍国主義の土足が踏み込んでくる。「寄附行為」改訂による痛恨の建学理念の後退は、このような過程の中のことであった。」

「戦後一九六七年、日本基督教団は総会議長鈴木正久牧師の名で所謂「戦争責任告白」を発表した。「まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは“見張り”の使命をないがしろにしました。心の痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを」願うこの告白は、そのままキリスト教学校にあてはまる懺悔であった。どのような理由があろうとも、時代と政治の圧力に抵抗しきれず、教育勅語を受け入れ、天皇制の魔術に操られ、建学の理念を放棄した罪は、心の深い痛みであり、戦後しばしば唱えられた「一億総懺悔」などという訳の解らないキャッチフレーズでなく、それぞれの否定すべき歴史、継承すべき歴史の精算を問い直し、各学校における建学理念の再構築をはかるものであった。」

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