個人に存在論的かつ道徳的に先行する共通善に向かって責任を分有していたかつての市民とは異なり、現在では、異なる利害・善を抱く他者との共存のために、市民たちは共に政治参加の「義務」を担い、そこで政治体における共生のルール、すなわち統合の原理を見い出すことになる。〔…〕しかしながら皮肉なことに、各人の利害・能力・善の異なりを所与の前提とするにもかかわらず、現代の市民をめぐるこのリベラルな責任論は、政治的主体の自律性を求めるために個人が自立的であることをこれまでになく強く要請し、責任主体となり得ない者を予め排除する論理を構築するという逆説を生むことになる。〔…〕
公民的伝統において、依存は、避けられるべきものと考えられてきた。というのも、依存は、共通善に関する——現代的な関心からいえば、共生の原理・規則を見い出すための公的な審議の場において——同意に達する見込みを阻害する要因となるからである。〔…〕ここで着目したいのは、市民の責任を「普遍的な理念」に対するコミットメントのみに限定し、そこに統合の原理の成立を見てしまうことと、政治体のメンバーシップ——ここではシティズンシップ——に内在する、依存状態への恐れである。〔…〕
すなわち、市民は、ある原理や規則に従う「義務」を負うものの、実際に様々な社会的状況に置かれている具体的な市民に対して互いに応答する、という意味における「責任」を果たすことは要請されていない。とりわけ、共約不可能な差異が存在する状況下——リベラルな社会状況——における市民の「義務」は、具体的な生をさまざまな文脈において生きている市民間の互いの応答というよりも、むしろ一般的な原理・規則の遵守を強調する傾向にある。その結果、具体的な市民一人ひとりの現状については無関心であっても構わないような、一種の無責任状態を生む。〔…〕
これこそが、私的領域では諸個人の善 good (幸福感や世界観・内心の自由に関わること)は自由に追求され、公的領域では、善を実現する手段(=財 goods)を獲得する際に生じる競合状態は公正な原理としての正義=法 justice に従って規制される、といった領域設定としての公私二元論であり、現代の政治思想の主流となっているリベラリズムを貫徹する論理である。というのも、すでに幾度も確認したように、この公私二元論は、個人の自由な善の構想をできる限り尊重しようとするために必要な制度だからである。
したがって、現代リベラリズムにおける公私二元論は、個人の自由(=自らの善においては、自己が最もよき判断者であるとする自立的個人の前提)を、つねにその論理の前提としている。〔…〕普遍化可能な一般的原則を自らの能力によって見い出し、その原則に従って公的なイシューに対して判断を下すために道徳能力を行使せよ、という市民的「義務」は、経済的自立だけでなく、様々な所与の社会的状況からも自立している「市民」であることを要請する。公的領域において「依存する者」が活動することを認めるならば、社会を構成している前提であるはずの、こうした道徳的能力における平等と、等しい道徳的能力ゆえに認められる自立と自由を、否定することにつながるからである。
以上のように、公的な領域においてすべての市民は、自律的な判断をするために自立しているはずだ——自立していなければならない——という前提が存在する限り、論理的に、そして理念としても、市民たちが、それぞれ置かれた社会的立場の違いから生じるはずの利害やニーズに直接応答しあう、という意味での市民間の「責任」といった問題は、そもそも公的なイシューとして登場する余地がないのである。