平和研究会(2023.4.29/第百三十五回)

岡野八代『フェミニズムの政治学』

個人に存在論的かつ道徳的に先行する共通善に向かって責任を分有していたかつての市民とは異なり、現在では、異なる利害・善を抱く他者との共存のために、市民たちは共に政治参加の「義務」を担い、そこで政治体における共生のルール、すなわち統合の原理を見い出すことになる。〔…〕しかしながら皮肉なことに、各人の利害・能力・善の異なりを所与の前提とするにもかかわらず、現代の市民をめぐるこのリベラルな責任論は、政治的主体の自律性を求めるために個人が自立的であることをこれまでになく強く要請し、責任主体となり得ない者を予め排除する論理を構築するという逆説を生むことになる。〔…〕
 公民的伝統において、依存は、避けられるべきものと考えられてきた。というのも、依存は、共通善に関する——現代的な関心からいえば、共生の原理・規則を見い出すための公的な審議の場において——同意に達する見込みを阻害する要因となるからである。〔…〕ここで着目したいのは、市民の責任を「普遍的な理念」に対するコミットメントのみに限定し、そこに統合の原理の成立を見てしまうことと、政治体のメンバーシップ——ここではシティズンシップ——に内在する、依存状態への恐れである。〔…〕
 すなわち、市民は、ある原理や規則に従う「義務」を負うものの、実際に様々な社会的状況に置かれている具体的な市民に対して互いに応答する、という意味における「責任」を果たすことは要請されていない。とりわけ、共約不可能な差異が存在する状況下——リベラルな社会状況——における市民の「義務」は、具体的な生をさまざまな文脈において生きている市民間の互いの応答というよりも、むしろ一般的な原理・規則の遵守を強調する傾向にある。その結果、具体的な市民一人ひとりの現状については無関心であっても構わないような、一種の無責任状態を生む。〔…〕
 これこそが、私的領域では諸個人の善 good (幸福感や世界観・内心の自由に関わること)は自由に追求され、公的領域では、善を実現する手段(=財 goods)を獲得する際に生じる競合状態は公正な原理としての正義=法 justice に従って規制される、といった領域設定としての公私二元論であり、現代の政治思想の主流となっているリベラリズムを貫徹する論理である。というのも、すでに幾度も確認したように、この公私二元論は、個人の自由な善の構想をできる限り尊重しようとするために必要な制度だからである。
 したがって、現代リベラリズムにおける公私二元論は、個人の自由(=自らの善においては、自己が最もよき判断者であるとする自立的個人の前提)を、つねにその論理の前提としている。〔…〕普遍化可能な一般的原則を自らの能力によって見い出し、その原則に従って公的なイシューに対して判断を下すために道徳能力を行使せよ、という市民的「義務」は、経済的自立だけでなく、様々な所与の社会的状況からも自立している「市民」であることを要請する。公的領域において「依存する者」が活動することを認めるならば、社会を構成している前提であるはずの、こうした道徳的能力における平等と、等しい道徳的能力ゆえに認められる自立と自由を、否定することにつながるからである。
 以上のように、公的な領域においてすべての市民は、自律的な判断をするために自立しているはずだ——自立していなければならない——という前提が存在する限り、論理的に、そして理念としても、市民たちが、それぞれ置かれた社会的立場の違いから生じるはずの利害やニーズに直接応答しあう、という意味での市民間の「責任」といった問題は、そもそも公的なイシューとして登場する余地がないのである。

「リベラルな責任論の応答不可能性」

 したがって、社会的・経済的な不平等が構造化されている社会の中で、また、身体に発する差異によって、他者に依存することなく生存することのできない者たちと、そのニーズに応える者たちは、市民ではない他の誰かとしてのみ扱われる。
 だが、少し考えてみればわかるように、わたしたち人間の条件において、全ての者が無力な者として生まれてくる限り、全ての者が誰かのケアに一方的に依存してきたことは、否定しようのない普遍的な事実である。したがって、必ず誰かは、わたしたちが存在するために、一定期間は、他者との依存関係に巻き込まれ、その依存状態に対してケアをする責任を引き受けざるを得ない。だが、その不可避の——誰もそうした責任を負わないのであれば、人類は存続し得ないのだから——責任を担う者は、具体的な他者を前にして、その他者から目を離すことができない。つまり、彼女・かれは、他者の存在に左右される、という意味で、文字どおり他者に依存した状況に置かれる。また、そのニーズを注意深く聞き取らなければならないといった責任の取り方からしても、さらには、逃れられない必然に巻き込まれたという意味においても、まさに不自由な存在だとみなされてしまうのだ。
 その意味でもまた、公的領域には差異を越え普遍化可能な価値において行為しうる一般的な他者は存在するとしても、個別具体的な他者は存在しない。そのため、ひとの身体に発するニーズへの配慮・ケアを中心とする依存関係は、公的領域においては重要な課題としては認められない。つまり、自己の身体性から発するニーズについて声を挙げる、他者のニーズに応える、そして個々のニーズに対するケアの責任を誰がいかに分担するかといった問題は、公的な市民たちの義務の体系には属さない問題である、として公的領域からは排除されるのだ。
 こうして、多様な背景を持った、異質な他者を認めようとしたシティズンシップ論は、依存する者をあたかも存在しない、非常に画一的な公的領域を設定してしまうことになる。〔…〕近代的な統合=同化の論理に対する反省から生まれたはずの現代的なシティズンシップ論でさえ、政治体への包摂の論理に孕まれる排除の効果を免れることはない。むしろ、統合の原理を共通善といった個人に先立つ実体的な理念に求めず、政治参加によって事後的に見い出される普遍化可能な原理に求めた結果、より強固な公私の境界を確立してしまったといえる。
 なぜ、暴力的に女性を排除してきた近代の初期における国民の構築以上に、より強固な公私二元論が設定されてしまうのか。それは、本章で検討してきたリベラルな公私二元論は、あらゆるひとに適用可能な普遍主義の下で構築される主体に働きかけ、主体内部にまで浸透する公私の領域設定だからである。

「依存を排除する包摂の原理」

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