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第1回 妙心寺道をいく。妙心寺から仁和寺へ

今日は、ここから出発!

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妙心寺の山門まで、妙心寺道の両脇は、町家が続いている。町並を楽しみながら西へ向かって歩く。

途中にある北野神社の御旅所の前に、川口鮮魚店という、京都では珍しく新鮮な魚をそろえている魚屋さんがあった。
だいたい京都では鱧(はも)や鯖といった、鮮度とは無縁な魚が主流なのだが。そのせいか、おやっさんも非常に威勢がいい。

少し先へ行くと、府立山城高校(南門)というのを見つけた。私事だが、死んだ親父が卒業した学校である(当時は府立3中といったそう)。
山城とは、いうまでもなく京都の別称。山城高校って、どこにあるのかと思っていたが、ここにあったのだ!

しばらく行って、

臨済宗・妙心寺の南総門に立つと

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本堂へつづく「参道」(境内の道も、こういう表現で良いのかな)が見える。長ーい。

「参道」を少し行くと、仏殿、法堂などが見える。日本最大の禅寺というだけあって、 境内は果てしなく広い。

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むろん京都五山(南禅寺/東福寺・建仁寺・相国寺・天龍寺・万寿寺)のどれよりも広大だ。なのに、京都五山には入れられていない。

それは、京都五山を定めた足利義満に嫌われたからだという。

そんな妙心寺なのに、参拝者は、まばらだ。この境内を、通学路や生活道とする人もいるが、それでも寂しい。

この寺は仕方がないとしても、富裕な観光寺社は税金(市民税、固定資産税など)を払うべきだ。応益原則(受益したら負担すべき)にしたがって。

僧侶といっても、水道を使い、市道を通り、市バスを利用している。であれば、水道管修繕費、市道整備費、市バスの車体購入費・運転手の給料などは、市民同様に負担すべきである。

さて、四十六もある塔頭(たっちゅう、付属寺院)のひとつに、

霊運院

というお寺があった。その前には「西田幾多郎先生墓」の碑がある。

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本業の哲学とは違って、西田の短歌はわかりやすい、というより下手。だから親しみを感じるのだろう。場所がら、
「愛宕山 入る日の如く あかあかと 燃し尽さん 残れる命」
という歌を思い出す。

鎌倉・稲村ガ崎にも歌碑があり、かつて東名を駆って見に行ったことがあった(現在は、台風19号のため一時的に撤去されているそう)。

また、春光院には南蛮寺の鐘が、大法院には佐久間象山の墓があるときく。
意外なことだが、石庭で有名な龍安寺もこの寺の塔頭のひとつだとか。
この記事のタイトルの背景は、鬼瓦が印象的な金牛院である。

さて、いくつもの塔頭を見て、

北総門をぬけると

仁和寺へとつづく続く道に出る。
途中の嵐電(北野線)との交差点に、

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こんな道しるべがあった。

やっと、仁和寺に着いた(写真は仁和寺全景)

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たおやかで優美な山門であるが、正式には「二王門」というらしい。             京都マラソンでは、この前をランナーが疾走する。

ぼくには東大寺の次に、りっぱな仁王さん(阿吽像)にうつる。

向かって左の吽像が、これだ。

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これが右の阿像である。

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門跡寺院

真言宗・仁和寺は、はじめ宇多天皇が住職をつとめたとされる。こういう皇室と関係の深いお寺を門跡寺院というそうだ。「御室(おむろ)」というのも、そこからきている。

御室・仁和寺といえば、誰しも『徒然草』の第52段を思い出すのではなかろうか。
石清水八幡宮に詣でた仁和寺の法師が、ふもとの寺社を山頂の本宮だと早合点し、満足して帰ってしまうという失敗談である。

『徒然草』は他段でも、仁和寺の法師を小馬鹿にした記述がある。ぼくは、兼好法師が仁和寺を良くは思っていなかったと思うのだが、どうだろうか。

おむろ桜

また仁和寺では、遅咲きの桜が有名である。毎年4月20日頃咲くといわれる、背の低い桜だ。

たまたま、ぼくはここで緑色(!)の桜に出会うことができた。写真を、”散歩をきわめる“ の序説のタイトルの背景に掲げておいたので、ご覧あれ!

五重塔

この寺の五重塔は、京都市内でひときわ秀麗だ。     
にもかかわらず、東寺の五重塔や八坂の塔(法観寺の五重塔)ほど有名ではない。なぜか?

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古い順からいえば、
①醍醐寺951年、②法観寺1440年、③東寺・仁和寺1644年。

高い順からいえば、
①東寺55m、②法観寺46m、③醍醐寺38m、④仁和寺36mの順。

なるほど。高さが重んじられたわけだ。

ここから最初の地点、西大路妙心寺道にバックする。今日の歩行距離は2万歩に近いと思われる。

少し疲れた。



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