新たなるガラパゴス・ミュージックであるシティポップと海外との地脈をもつ音楽たち

文 ueda

・音楽の島国化が生み出すもの

 ゼロ年代前半~中盤の日本のロックシーンを支配していたのは所謂「ロキノン系」と呼ばれる音楽だった。これはAsian Kung-fu GenerationとBump of Chickenが図らずも生み出してしまったムーブメントでもある。いわゆる四つ打ちダンスミュージックとしての傾向が強く、表面上は彼らの音楽を模倣しようと思いながらも、結局は無味乾燥な音楽を雨後の竹の子のように生み出していった(これに関しては決して先の2バンドの過失にすべてが負われるものではないが、アジカンの後藤正文自身はこのことに加担してしまったということに何かしら意識的であることがのちのソロワークからもうかがえる)。なぜ彼らが本質的な部分にまでそれらを落とし込むことが出来なかったのかを考えるとまず一つに音楽的な情報量の少なさにある。前述した2バンド、例えばアジカンであれば自身が主催するフェスであるNANO-MUGEN FESにも出演しているWeezerやAsh、Wilcoなどの海外の音楽、そしてくるり、ナンバーガール、スーパーカーをはじめとした-日本の音楽史としては極めて異端かつ重要なバンドを多く輩出した-所謂「98年の世代」のバンドたちにヴィヴィッドに影響を受けていた。ここに存在する一つの要素として、「海外の音楽からの影響」というものがあげられる。「98年の世代」のバンドたちは日本国内にいながらもその音楽性は海外の音楽の要素をふんだんに吸収したものであった。だが所謂ロキノン系が無味乾燥なバンドを生んでしまった大きな原因としては国内のバンドに影響を受けたというだけで、そのバンドたちがどのような音楽まで聴いていたのかを掘り下げることをしなかった。つまり表面的な模倣にすぎないのである。現在においてロキノン系という存在は下火になり、あまり目に見かけることが無くなったが、ここ数年の状況を見ていてこのガラパゴスミュージックの意思を受け継ぎつつある音楽が存在する。それがシティーポップという存在であると筆者は考えている。

・換骨奪胎されるシティーポップという音楽

 シティーポップというジャンルの存在が際立ってきたのは国内においてミツメ等を筆頭とする東京インディーが台頭してきたことによることが大きい。が、東京インディーのバンドたちが種々雑多なバンドたちが入り乱れ一つや二つのジャンルではレジュメできない豊潤さがある。シティーポップ再評価もその中の一つとして生まれてきたものだ。当初は筆者自身もぽつぽつとシティーポップっぽい音楽をやるバンドが増えてきたな~と感じていたが、気づいたら大きなブームとして喧伝されていた。そう、メディアが大きくシティーポップが再評価されてると宣伝し始めたのである。これが違和感の始まりであった。そのメディアに先導されるようにシティーポップという言葉は一人歩きを始めた。某大手量販店ではポップに使われることも多くなり、宣材用の資料にも多く使われるようになった。シティーポップは明らかに業界主導のムーヴメントへとなった。そう、かつてそのメディアの名が冠された「ロキノン系」という単語のように。筆者はこの流れにはNoの意思を表明したいと考えている。 僕自身がシティーポップという存在をこのように感じている理由として、やはり前述した「国内の音楽のみをルーツとしているのではないか」という懸念が存在するからである。例えば、シティーポップが標榜とするものはシュガーベイブ~ソロ前期の山下達郎またはフリッパーズギターをきっかけとした所謂渋谷系と呼ばれる音楽からの影響が濃くみられる。彼らが影響を受けたミュージシャンたちはしっかり海外の音楽を咀嚼し、再定義を行っている素晴らしい音楽を作り出している。問題はやはりそういう音楽の表面的な部分でしかくみ取れていないバンドが多いのではないかという点である。これではロキノン系の二の舞になるのではないか。一部の賢いミュージシャンはシティーポップとレジュメされるのを拒否している節もあり、問題として認識されていることもうかがえる(Yogee New Wavesの角館健吾はインタビューのなかで「自分たちはシティーポップをやっているという自覚はあるか?」と聞かれた際、「ありませ~ん」とおちゃらけた態度で否定していた)。もはや国内で資本を循環すればよいという閉鎖的な考えは良い方向へ決して進んでいかない。そのシティーポップブームにアンチを唱えるように海外の音楽を貪欲に吸収するバンドたちも存在する。

・海の向こうへのあこがれを鳴らし続ける者たち

 Ykiki BeatとDYGLを率いる秋山信樹はここ日本においては明らかに不利であるともいえる海外シーンへの積極的な交流を試みている。彼の作る音楽自体も海外のポップミュージックを貪欲に吸収したもので(それはボーカルでのイギリスの労働者階級のコックニー訛りを真似たような英語の発音にも表れている)、アルバムを発売すれば必ずアメリカツアーを行ったりしている点からしてもかなり徹底されている。彼らはその音楽センスの良さによって、ここ1,2年の間にジワジワと両バンドとも知名度を上げている。彼らの音楽的バックグランドの特徴といえるのは(特にDYGLにおいて顕著だが)アメリカ西海岸のスケーターが聴いてるような粗野で猥雑、そしてトリッピーなパンク・ミュージックから影響を受けている点だ。インディーロックはいわゆる「お利口さん」が聴いているようなバンドが多数存在するが、彼らが影響を受けたようなFidlarをはじめとしたパンクバンドたちは直情的なサウンドを鳴らしている。日本においては貴重な存在であり、カウンターでありメインストリームにもなれる存在だろう。京都のSeussというバンドは、前者の2バンドのようなカラッとした音ではなくウェットでサイケデリアな音楽を紡いでいる。DYGLのような陽光輝く下で鳴らされた音楽ならば、Seussは地下のジメッとした空間で鳴らされた音楽である。例えるならストーンズの「メインストリートのならず者」のような音楽というべきか。ルーディーでほのかにドラッギーな音楽である。彼らもまた、海外の音楽と交点を持つバンドといえる。札幌のバンド、Not Wonkの存在も忘れてはいけない。元銀杏ボーイズの安孫子信哉が立ち上げたレーベルKiliKiliVillaから昨年デビューした彼らは今まさに破竹の勢いで知名度を上げつつある。彼らのバックグラウンドにあるのもまたパンクであり、初期Green DayやMega City Fourの音楽を新たに再解釈していく様はまさに痛快である。今のキッズ、かつてキッズであった人たちすべてにアピールすることができるバンドは貴重。

 他にも海外の音楽とも接点を持つバンドは多く存在するが、今回は国内のバンドに足りないルーズさやフィーリングをもったバンドであると感じたバンドを紹介してみた。国内の音楽シーンの状況は相変わらず厳しいものであるが彼らはサヴァイブできる力があり、それでありながら、音楽的な滋養とそれをうまく楽曲に折り合わせるセンスも兼ね備えている。そして、その一つとして海外の音楽の存在があることを忘れてはいけない。近親相姦的な音楽ではいずれシーンは崩壊していく。異種交配的な音楽こそが音楽の強度を増させ、シーンを成長させていくものになることを彼らは証明してくれるはずだ。

ueda

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