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ありのままって何だろ。

 「ごめん遅刻する~」

 幼い頃からずっと側にいてくれた旧友との再会。確か昔から割と遅刻するタイプだったっけ。彼女はやっぱり今日も遅刻をかましていた。どうやら、美味しいものを罪悪感なく食べるために筋トレしていたら出遅れてしまったらしい。彼女の遅刻にイライラすることもなく、普段自分から運動しようなんて滅多に言わない彼女の頑張りを認め、褒めてあげたくなっている自分がなんだかおかしくって、思わず笑ってしまった。

 もうそろそろかなと辺りを見回していると、突然視界に旧友が入って来たもんだら、私は思わず叫んでしまった。彼女はそんな私を見て「あっはっはっ」と独特な声を出して笑った。

 その時、私は彼女の笑い方に違和感を覚えた。なんか不自然で慣れない。私は咄嗟に「なんか笑い方変わった?」と聞いてしまった。そんな突拍子もない私の質問に彼女は、「友達の笑い方がうつったのかも」とあっさりと答えた。あれこれ考えてみたところ、「人は環境に適応しながら生きている」ということに気付いた。「環境に適応しながら生きる」って何だかごく当たり前のことのように聞こえるかもしれない。けれど、私にとってはとても大事な気付きだった。

 夏休みに入る前、ゼミで「ありのまま」について考える機会があった。ありのままの自分とは一体何なのか。当初の私は、ありのままって偽ることなく自分の気持ちに正直になって行動する姿だったり、窮屈さや不快感を感じることなく居られる状態なのかなって思っていた。なんかこう、ありのままでいられると、色々取り繕わなくて良くて、自然体で居られて、心も身体もふわっと軽くなるような感覚になるのかなと。そして、「自分のありのままの姿はこれだ」と、一貫性のある決まった型みたいなものを1人1つ持っているイメージがあった。更に、「ありのまま」ってたとえ色々な方向へ脱線したとしても立ち戻れる基点っていうイメージもあった。

 一方で、初対面の人に自分をいつも以上に大きく、強く見せよう、或いは良い印象を与えようとして、偽りの自分を演じてしまう場面をありのままでいられない場面と勝手に決めつけていた。けれど、「偽ってしまうのもありのままの姿なのかも」、「そもそもありのままの自分の姿がどんなものなのか理解出来ていないのかも」というゼミ生の意見を聞いて、私の考え方は大きく変わった気がする。そんな見方もあるのかと圧倒された。とは言うものの、「ありのまま」とは何であるのか結局曖昧なまま答えを出せずにいた。ありのままの姿ってもはや無いも同然なんじゃないのか、自分のありのままの姿はこれって決めてしまうから逆に、その姿とは違う自分になった時に不安になったり、そわそわして心が落ち着かなくなったりするんじゃないかって思った。「ありのまま」って一体全体何なんだと、悶々とする期間が続いたけれど、旧友と交わした何気ない会話を機に、少し答えを見出せたような気がする。偽りのない姿がありのままな姿ってよりもむしろ、周囲の環境に適応しようとする人間の性質こそがありのままを象徴しているんじゃないかって思う。緊張感が漂う公的な場では大抵、いつも以上に礼儀正しい振る舞いになってしまうだろうし、初対面の人と話す時はやけに社交的な人物を演じてしまうだろうし。
 
 適応していくってことは常に変化を伴う。だから結局、「ありのまま」は新たな環境へと状況が変わるごとに形を変えていくものであって、色々な形があって良いんだろうなと、そう思い始めた。


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